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中世イスラム世界Ⅱ  正統カリフ時代

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 イスラム教の教義ではムハンマドは最後の預言者でした。カリスマ的指導者が亡くなってイスラム教団は混乱します。しかし教団の俗務の後継者を定めねばなりません。そこで信徒の有力者たちは協議し、教団の長老でムハンマドをずっと支えてきたアブー・バクルを教団の指導者として選出しました。
 
 指導者はアラビア語の後継ぎ(ハリーファ)から訛ったカリフと呼ばれるようになります。アブー・バクルから4代目のアリーまでは選挙でカリフが選ばれたためこの時代を正統カリフ時代と呼びます。
 
 初代アブー・バクル(在位632年~634年)の時代にアラビア半島を統一、第2代カリフ、ウマル(在位634年~644年)の時代にシリア、エジプト、メソポタミアイラン高原まで領土を拡大しました。
 
 このイスラム帝国の発展は、丁度ビザンツ(東ローマ)帝国、ササン朝ペルシャ帝国という二大国が衰退期に入っていた事が大きく作用しました。
 
 ビザンツ帝国は636年ヨルダン川支流のヤルムークの戦いでイスラム軍に敗北しシリアを失陥します。ササン朝は642年ニハーバンドの戦いでイスラム軍に敗北、こちらはイスラム軍の攻勢を支えきれず王朝は崩壊しました。
 
 イスラム軍は各地に攻伐を繰り返し、ビザンツからエジプトを奪いイラン高原にも進出していきます。ウマルの後ウスマーン(在位644年~656年)が後を継ぎ、第4代カリフにはアリー(在位656年~661年)が立ちました。
 
 
 アリーはムハンマドの一族で、ムハンマドを幼少期から育ててきた叔父アブー・ターリブの息子でした。ムハンマドの従兄弟でその娘ファーティマを妻に迎えるほど親密な関係だったのです。イスラム教団にとってアリーは切り札とも云うべき人物でした。
 
 
 人格円満、聡明にして博識、公平無私、戦場では勇者となったアリーの将来は約束されたかに見えました。ところがこの頃になるとイスラム教団は形骸化し現地で軍を指揮する諸侯との対立が激化していきます。特にメッカの名門ウマイヤ家出身のムアーウィアはシリア総督の地位を利用してウマイヤ家に忠誠を誓う勢力を結集し始めました。
 
 
 教団のトップと世俗諸侯の最有力者、両者の対立は次第に先鋭化していきます。事態を憂慮したアリーは、656年イラク地方に進出したムアーウィアに対抗するため自身もイラクへ向かいました。12月反対派の籠るバスラを攻めてこれを降します。
 
 アリーはそのままイラクに留まり、シリアのムアーウィアと睨みあいました。657年、アリーはムアーウィアを討つべく5万の大軍でシリアへ向かいました。ムアーウィアもこれに対抗して軍を差し向けます。両軍はユーフラテス川上流のスィッフィーンでぶつかりました。当初戦況が不利だったムアーウィア軍は槍の穂先にコーランの一節を結び付けアリー軍に示します。アリー軍はこれを見て動揺し結局兵を引きました。
 
 半年後停戦が成立し、戦いは将来に持ち越されました。ところがアリー陣営の中で「正統カリフでありながらアッラーの決裁を仰がずに人間の勝手な取り決めで戦争を止めた」と不満がくすぶり出します。彼らはハーリジ派と呼ばれますが、661年彼らの手によってアリーは暗殺されてしまいました。
 
 
 アリーの支持者は、彼の子孫のみが正統なカリフたる資格があると主張し、イスラム教の多数派であるスンニ派と対立します。彼らはアラビア語で党派を意味する「シーア」派と呼ばれました。シーア派はアリー終焉の地であるイラクからイラン高原に渡って広く分布しています。
 
 
 アリーの死によって正統カリフ時代は終わりを遂げました。最大の政敵がいなくなったので権力は自然とシリアのムアーウィアのもとに集まります。661年、ムアーウィアは自らカリフに就任しダマスクスを首都とする王朝を開きました。これがウマイヤ朝の始まりです。