中世についての定義は諸説あります。その中で私は欧州に関しては西ローマ帝国の滅亡(476年)を古代の終わり中世の始まりと見ます。中世が終わったのはルネサンス期(14世紀~16世紀)で一応の目安としてはビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡した1453年あたりから近世が始まったと見て良いでしょう。
では他の地域はどうでしょうか?我が日本の場合古代の終わりは平安時代末期と見て良いような気がします。武士が政権を握った鎌倉時代が中世の開始であり、その終わりは織豊時代、そして江戸時代から近世が始まったと考えます。
支那大陸の場合は難しいのですが、漢族支配が完全に終わった魏晋南北朝を古代の末期としたいと思います。隋唐期は支那化した北方遊牧民の支配で国際化した時代。これを中世の開始とします。しかしその終わりがまた難しい。極論すれば支那の民度が変わらないので(むしろ劣化している?)中世が未だに続いているとも解釈できますが、一応明以降を近世とします。
ここでようやく中東西アジアに入るのですが、古代の終わりはササン朝の滅んだ当たりを考えています。しかし具体的には曖昧なのでのちに北アフリカから中央アジアにまたがる大帝国を築いたイスラム帝国、そして世界三大宗教の一つイスラム教を創始したムハンマドの登場をもって中世の始まりと解釈したいのです。
本シリーズでは、イスラム教団の誕生、発展、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝までは簡単に流れを記すにとどめ、イベリア半島に栄えた後ウマイヤ朝、中世イスラム世界で大きな影響力を示したセルジューク朝、イランに興ったホラズム朝(フワーリズム・シャー朝)、十字軍戦争との絡みでアイユーブ朝、マムルーク朝の歴史を描こうと思っています。
イスラム教の創始者ムハンマドは、570年頃アラビア半島中西部紅海から少し入ったところにあるメッカに生まれます。メッカの中心部は山々に挟まれた狭い盆地で古代から隊商都市として有名でした。アラブ人はイエメンからシリアに抜ける陸上交易路ばかりかインドから紅海を通って地中海に抜ける海上交易路でも活躍しました。
ムハンマドは、メッカの有力氏族クライシュ族のハーシム家出身でしたが誕生前に父を失い幼いころ母も亡くなったため苦労したそうです。最初は祖父、そして叔父に育てられたムハンマドは交易商人としてめきめきと頭角を現します。25歳の時富裕な未亡人ハディージャに見染められ結婚します。彼女はムハンマドより15歳も年長でしたが夫婦仲は良かったそうです。彼女との間には2男4女をもうけますが、この事実を考えると15歳年長という話は怪しくなります。実際はもっと若かったのではないかと私は考えています。
しかしムハンマドの二人の男子は若くして亡くなります。人生の無常を感じたムハンマドはメッカ近郊のヒラー山の洞窟に入り瞑想にふけっていました。610年洞窟で修業を重ねるムハンマドのもとへ大天使ガブリエルが現れ啓示を与えたとされます。唯一神アッラーを奉じるよう大天使から命ぜられたムハンマドは山を降り預言者として生きる決意をします。
しかし突然妙な事を口走るようになったと周囲の者に警戒され信者はなかなか増えませんでした。そんな中最初に信者となったのは彼の妻ハディージャでした。その後従兄弟のアリー(第4代正統カリフ)や友人のアブー・バクル(初代正統カリフ)らが信者となります。
613年、ぼつぼつと信者も増えムハンマドはメッカで公然と活動を開始します。ところが多神教を信じるメッカの人々はムハンマドの教えを邪教と憎み迫害しました。619年妻ハディージャは亡くなります。メッカでの活動を諦めたムハンマドは622年少数の信者たちを引き連れ北方のメディナに移り住みました。イスラム教ではこの年を聖遷(ヒジュラ)と呼んで尊びます。イスラム暦ではヒジュラを元年としました。
この動きを危険視したメッカ側は、邪教(と彼らは考えていた)をこれ以上拡大させないため624年1000人の兵士を送ってメディナを討ちました。この時メディナ側はわずか300しか兵力を集められませんでしたが、存亡の危機から士気が高くバドルの戦いでこれを撃破します。
627年、メッカ軍はムハンマド教団の息の根を止めるべく1万もの大軍で押し寄せます。メディア軍は策略を持ってようやくこれを撃退、628年フダイビーヤの和議で痛み分けに終わりました。停戦条件は教団側に不利なものでしたが、逆にこれで勢力が認められ信者が増えました。
630年停戦協定が破れると今度はムハンマドが1万の兵力を集めメッカに侵攻します。わずか数年で勢力が逆転していたのです。メッカは戦わずして降伏、ムハンマドに敵対的な一部の指導層が処刑されたほかは寛大な処置で済みました。