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前漢帝国の興亡Ⅵ    帝国滅亡

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 武帝に後事を託された霍光(かくこう)は名将霍去病の異母弟です。24歳で夭折した霍去病の親族であるという事はそれだけで武帝に気に入られました。彼は兄と違い軍事の才能はゼロでしたが一方政治的な能力はずば抜けていました。
 
 
 霍光は昭帝の信任を背景に、同じく後事を託された一人上官桀を政治的に追い込み謀反を起こさせて誅殺しました。昭帝は霍光を信任し続けます。後見人の一人金日磾(きんじつてい)は昭帝即位の翌年病死していましたから以後は霍光の独裁体制が確立します。
 
 紀元前74年、昭帝は21歳で亡くなりました。霍光は昭帝の兄の子劉賀を即位させますが品行不良を理由にすぐ廃位します。次に担ぎ出したのは武帝時代無実の罪を着せられて殺された戻太子劉拠の孫劉病己でした。すなわち宣帝です。このように霍光は武帝の遺言を盾にやりたい放題でした。
 
 紀元前68年、専横を極めた大将軍霍光はついに病死します。これまでじっと我慢し続けていた宣帝は、霍光一族を族滅させようやく親政を開始する事が出来ました。
 
 
 宣帝は、若いころ民間にあったので世情に通じた皇帝だったと云われます。最初は農奴解放など積極的な内政を推し進めますが、晩年は結局奢侈な生活に逆戻りしました。政治も顧みなくなり外戚と宦官はびこる王朝末期の様相を呈してきます。
 
 
 次代の元帝、次の成帝は弛緩した帝国財政の回復に努めますがほとんど成果は上がりませんでした。成帝の時代外戚の王氏が力をつけます。成帝の皇后王氏の兄にあたる王鳳は大司馬大将軍となり異母弟五人も列侯に封じられました。
 
 ところが成帝が後継者もなく没し、甥に当たる哀帝が即位すると王氏一族は没落します。その後哀帝は急逝し9歳の平帝(在位AD1年~5年)が即位する事となりました。
 
 幼帝に政治を見る事はできませんから、元帝の皇后であった王太后が後見するようになります。すると王一族の切れ者と評判だった王莽(おうもう、BC45年~AD23年)が大司馬として返り咲きました。
 
 王莽は、自分の娘を平帝の皇后にして外戚となると安漢公に任命されさらに諸侯王の上という殊礼で遇されました。さらに宰衡(さいこう)を加号されます。これは周の成王を補佐した周公の称号「太宰」と商(殷)の湯王を助けた伊尹の「阿衡」の称号を合わせたものでした。
 
 
 位人臣を極めた王莽が次に狙うのは帝位です。平帝はわずか14歳で亡くなりました。世間では王莽による毒殺を噂します。王莽は宣帝の曾孫劉嬰を担ぎ出しますが、すぐに皇帝に即位させませんでした。嬰を皇太子に立てると自分が仮皇帝と称して国政を取り仕切ります。
 
 彼の行動からも平帝毒殺説は説得力を持ちます。しかし名分のない王莽が劉氏に代わって帝位につくのは無理がありました。そこで彼は人を使って工作させ、古井戸から見つかった白石に『告ぐ、安漢公王莽、皇帝たれ』と朱色の文言が記されていたと報告させます。
 
 これを盾に取り群臣を動かして自分を帝位に推戴させ、仮皇帝からついに皇帝に上り詰めたのです。これを符命革命と呼びます。紀元8年、王莽は皇帝を称し国号を「新」と名付けます。劉嬰は皇帝にならぬまま廃され安定侯に封じられます。これで名実ともに前漢帝国は滅びました。
 
 
 王莽の「新」朝は簒奪した弱みからか儒教原理主義とも呼べる時代錯誤の政治を行いました。現実と遊離した理想論で国が動くはずはありません。間もなく各地で反乱が起こりました。なかでも赤眉の乱は王朝を揺るがすほどの大乱で反乱軍に首都長安を落とされ王莽は乱戦の中で殺されます。わずか一代15年の短い王朝でした。