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後漢帝国Ⅵ  党錮(とうこ)の禁

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 皇帝独裁制専制国家は、官僚国家になりがちです。さらに皇帝個人では余程能力が高くない限り一人で統治できませんから、宦官が台頭します。一方、古代は血縁社会ですから皇后の親族、つまり外戚が権力を持ちました。党錮(とうこ)の禁とは、処分された者が官職追放と出仕禁止(これを党錮と呼ぶ)になった事からこの名がつきました。

 一般に党錮の禁は、宦官と清流派官僚の争いで後者が敗れた事件を指しますがその根本には外戚と宦官の争いがありました。わずか10歳で即位した後漢4代和帝(在位88年~105年)は、幼少で一人では政治を行えなかったため継母太后の兄竇憲(とうけん)が大将軍に就任しこれを補佐します。大将軍は非常設の官位でもともとは国家の軍事を司る重職ではあるものの政治を統括する三公(後漢では太尉、司徒、司空)よりは下でしたが、国軍と云う実力部隊を握っていたため三公の権威を凌ぎ軍事・政治を司る最高官になりました。

 大将軍となった竇憲は、歴代外戚の例に漏れず一族を国家の枢要な地位につけ国政を壟断します。成長した和帝はこの状況が次第に我慢できなくなりました。和帝は自分の側近である宦官を重用し竇憲の一族と対抗させます。結局外戚でなければ宦官が権力を握るのは支那王朝史の必然でした。

 一方、竇憲の一族に押さえつけられていた官僚たちも鄭衆を中心とする宦官勢力と結託し紀元92年、皇帝の暗殺を謀ったという罪で竇憲を糾弾します。竇憲は自殺しその一族は免職の上洛陽を追放されました。この時活躍した宦官の中には紙を発明した(改良しただけとも言われる)蔡倫もいたそうです。竇憲一族の失脚に連座して漢書を記した班固が投獄され失意のうちに亡くなった事は前に書きました。

 和帝の皇后鄧皇后は後漢建国の功臣鄧禹の孫にあたります。身長7尺2寸(約172cm)、容姿端麗、頭脳明晰。12歳で詩経論語を諳んじ母親から「お前は学者にでもなるつもりか?」と嘆かれたそうです。16歳で後宮に入りその美貌で和帝の寵愛を一身に受けます。実は和帝にはすでに陰皇后がいましたが、和帝に疎まれ陰一族の巫蠱(呪い殺す事)の罪に連座し迫害死させられました。これで障害の無くなった鄧氏は正式に皇后となります。

 ただし後の彼女の行動から見ると、陰皇后の自滅には関与していなかったと思います。学問好きな彼女のために和帝は当時最高の女流学者だった班昭(班固の妹、曹大家)を招聘したくらいです。班昭の薫陶もあり、鄧皇后は良妻賢母になります。さらには竇憲一族の滅亡を考え皇帝に決して自分の一族を重用しないよう訴える良識を持っていました。

 105年、和帝は27歳の若さで亡くなります。鄧皇后は25歳の若さで未亡人となりました。実子の殤帝は生まれたばかりの赤子です。鄧氏は太后となって政治を執りました(臨朝)。ところが殤帝はわずか8カ月で死去。そこで彼女は3代章帝の孫安帝を即位させて臨朝を続けます。普通ならこのような状況では国政がボロボロになるはずですが、彼女が統治した16年間は徳政と称えられ稀に見る安定期だったそうです。それだけ彼女の能力が高かったのでしょう。

 121年、鄧太后は41歳で亡くなります。さすがに鄧太后の臨朝期間には彼女を補佐するため外戚の鄧一族が登用されており成人になっていた安帝は宦官の力を借りて鄧一族を滅ぼしました。鄧一族は、鄧太后の厳しい目があったためそれほどひどい政治は行っておらず弾劾されるほどの罪はなかったと言われますが、それでも外戚という存在が安帝には許容できなかったのでしょう。

 私は鄧氏一族覆滅を安帝に唆したのは宦官ではなかったかと考えています。その後宦官が十常侍となって国政を壟断し始めたからです。十常侍とは、もともとは12人いた中常侍(皇帝の身の周りを世話する役職)の事ですが、後漢末期の中常侍たちを特に十常侍と呼びました。

 安帝以降の後漢の政治は、この外戚と宦官の権力闘争の歴史となりました。その経過は皇帝死去→新皇帝即位と外戚の台頭→皇帝の成長→宦官の力を借りて外戚排斥→皇帝死去という無限ループに陥ったのです。その間、官僚も二派に分かれます。一つは宦官と結びつき汚職を行って自己の利益を図る者。これを濁流派と呼びました。それに対し、宦官や濁流派を批判する勢力は自らを清流派と名乗ります。ただ、実態は士大夫階級の権力闘争とも言えました。

 後漢の官吏登用制度は郷挙里選といって地方官がこれはという人材を推挙する方式ですが、結局はコネや賄賂がはびこり地方の有力豪族の子弟が選ばれるのは常でした。清流派といっても、地方の有力豪族出身であるのは間違いなくただ自分に財産があるため汚職する必要性が無いだけという厳しい見方もできます。ちなみに選挙の語源はこの郷挙里選にあります。

 こんな中、166年司隷校尉李膺太学の学生の郭泰や賈彪など清流派官僚たちが中常侍の専横を批判し弾劾しました。宦官の反応は早く李膺らを国政を批判した罪で逮捕、死罪こそ免れたものの終身禁固に処します。これを第一回党錮の禁と呼びます。

 第二回は169年で、この時は外戚の竇武が清流派官僚陳蕃らと組んで宦官排除を目指し挙兵しますが失敗し竇武は自害しました。第二回党錮の禁でも清流派官僚の多くが連座して逮捕されます。中には無関係なものもいたそうですが、宦官勢力にとっては目障りな存在をこの際一気に叩こうという腹積もりだったのでしょう。

 これ以後も宦官による清流派官僚の弾圧は続きます。黄巾の乱が起こると追放された官僚が反乱に加わる事を恐れた朝廷によって禁が解かれ、ようやく党錮の禁終結しました


 次回最終回は、後漢王朝を揺るがせた黄巾の乱と王朝滅亡を描きます。