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後漢帝国Ⅰ  王莽の簒奪

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 前漢第12代皇帝成帝(在位BC33年~BC7年)の治世は、武帝以降の混乱した政治を建て直し政治に悪影響を与えていた宦官の勢力を削ぐように努める時代でした。しかし逆にこの頃から外戚の力が強くなり前漢王朝は斜陽の時代に入ります。

 成帝の皇后孝元皇后(王政君)の兄王鳳は大司馬大将軍録尚書事(軍政・軍令・行政のトップ)となり強大な権力を得ます。そればかりか王一族は王鳳の異母弟五人も列侯に封じられるなど我が世の春を謳歌しました。ところがBC7年成帝が実子のないまま崩御し甥の哀帝(在位BC7年~BC1年)が即位すると、王氏は群臣からよく思われていなかったこともあり凋落します。王鳳がBC22年に亡くなってこれといった人材がいなかった事も災いしました。しかし運命とは分からないもので、哀帝もBC1年24歳の若さで急逝したこともあり哀帝の従兄弟で元帝(11代、成帝の父)の孫に当たる平帝(在位BC1年~7年)が即位することとなりました。

 平帝は即位時わずか2歳だったため成帝の皇后だった孝元皇太后がこれを後見することとなります。これには哀帝外戚だった傅氏や丁氏との泥沼の権力闘争があったのですが煩雑になるのでここでは書きません。ともかく孝元皇太后は己の権力を安泰にするためにも下野していた王一族を再び朝廷に呼び戻しました。

 中でも皇太后の甥王莽(おうもう BC45年~23年)は、彼女に可愛がられいきなり大司馬(三公のひとつ。軍政のトップ。現代でいう陸軍大臣)に抜擢されます。実は王莽の父王曼は早死しており王鳳の兄弟のなかで王莽一族だけが没落していました。王莽は、そのハンディキャップをものともせず、質素倹約に甘んじ儒学を修め王鳳が病気になると寝食を惜しんで看病します。感動した王鳳は、死に際して王莽を一族の後継者に指名したほどでした。

 王莽は、娘を平帝の皇后に冊立し外戚として絶対権力を振るいます。平帝も幼少ですから王莽の娘も幼子であったはずでままごとのような夫婦ですが、外戚の王莽としてはこの方が都合よかったのでしょう。王莽は商初の名臣伊尹の称号阿衡と周の成王を助けた周公旦の役職太宰を合わせた『宰衡』という称号を名乗り、諸侯王の上という殊礼を持って遇される地位を得ました。その上で邪魔になった平帝を毒殺、宣帝の末孫という孺子嬰(じゅしえい)を探し出してきて皇太子につけます。いきなり皇帝にしなかったのは王莽の狡猾な考えがあってのことでした。

 ここまで見てくると、王莽が儒学を修めたのは立身出世のためであり精神的には何の寄与もしていないばかりか、逆にそれを悪用するようになった事が分かります。王莽は皇太子を後見する仮皇帝にまず就任します。そのからくりはこうでした。人を派遣して地方の井戸に文言の書かれた白石を投げ込み、わざと発見させます。

 白石には「告ぐ安漢公王莽、皇帝になるべし」と書かれていました。現代と違い当時は迷信が横行していましたから人々は素直にこれを天のお告げとして信じます。地方官からの報告を受けた王莽は、群臣の推挙に渋々といった形で仮皇帝に就任しました。孺子嬰を皇帝にしていないのですから誰が考えても王莽の陰謀だと分かっています。しかし絶対権力を持つ王莽に逆らう事は死を意味しました。

 仮皇帝となった王莽は、利用価値の無くなった孺子嬰を廃し紀元8年正式な皇帝に就任します。この時も井戸の白石と同じような工作を行って人々を騙しました。これを符命革命と呼びます。そして王莽は支那史上初めて禅譲によって皇帝となりました。ただ軍事的に前王朝を倒す放伐禅譲の違いは、武力を直接行使するか脅しに使うかで大きな違いはありません。王莽が儒教に凝ったためにこういう形式になったに過ぎませんでした。

 王莽は国号を『新』と称します。周代の治世を理想とし、独善的な華夷思想周辺諸国に押し付けたため反発を生みました。また内政でも現実離れした時代錯誤とも言うべき儒教思想による統治で人々の生活は混乱します。農地の国有化や独善的な貨幣制度の押しつけで不満を爆発させた農民は各地で反乱に立ち上がりました。その最大のものは赤眉の乱と緑林・銅馬の乱です。

 次回は新王朝を事実上滅亡に追いやった赤眉の乱を描きます。