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大清帝国Ⅵ  三藩の乱

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 摂政王ドルゴンは確かに有能な政治家・軍人でした。幼帝順治帝を擁し皇帝に等しい絶対権力をふるった彼がいなかったら清王朝成立はなかったかもしれません。ところが権力者の常、巨大な功績から慢心が生じ横暴が目立つようになりました。

 成長した順治帝はこれを苦々しく見守りますが、ドルゴンの力は絶大で生きている間は我慢するしかありませんでした。そのドルゴンは、1650年狩猟中に死去します。皇帝でもないのに廟号に成宗と諡(おくりな)されるなど異例でした。1651年、順治帝は生前ドルゴンに大逆の罪があったとして全国に罪状を公布。墓から死体を暴き斬首して晒しました。ドルゴンの名誉が回復されたのは乾隆帝時代の1778年です。順治帝がドルゴンを許せなかったのは母と再婚したからだと言われます。ドルゴン派の官僚も多くが処刑されました。

 親政を始めた順治帝はまずまずの実績を残します。1659年鄭成功の北伐軍を退けたのも彼です。順治帝の時代にほぼ大陸は平定されました。1661年順治帝天然痘にかかり24歳の若さで崩御します。第4代皇帝に即位したのが清朝時代最高の名君と言われる康熙帝でした。順治帝の第3子として生まれた康熙帝は即位当時6歳。順治帝の遺命によりスクサハ、ソニン、エビルン、オボイの4人の大臣の合議によって政権は運営されます。

 清に天下統一の機会を与えた呉三桂は、その後も南明政権攻略に活躍します。雲南に転戦した呉三桂は南明政権最後の皇帝永暦帝を捕らえました。呉三桂は永暦帝父子を火刑に処したとも言われます。この時永暦帝の生母馬太后は「この逆賊め!妾は死して地下から見張り、お前の屍が砕かれるのを見てやる」と罵ったそうです。

 南明戦で功績を上げた呉三桂は平西王に任ぜられ雲南を領地に与えられます。同じく広東を領土とする平南王に尚可喜、福建を領土とする靖南王には耿仲明が封じられ、これを三藩と呼びました。三藩は、藩内の徴兵権・徴税権・官吏任用権を持つ清国内の半独立国です。長ずるにつれ康熙帝は三藩の存在が目障りとなっていきました。

 1673年、平南王尚可喜が引退し息子之信に藩王位を譲りたいと奏上します。朝廷ではこれを機に三藩の廃止が論ぜられました。議論は分かれますが、康熙帝は廃止の断を下します。急報は雲南呉三桂のもとにももたらされました。普段康熙帝を若造と侮っていたこともあり、呉三桂は蜂起を決意します。ただ、挙兵の大義がなく「排満復明」を唱えるしかありませんでした。ところが、明朝最後の生き残り永暦帝とその家族を残酷な方法で処刑したのは呉三桂自身でした。人々は呉三桂の悪行を覚えていました。ですから民衆レベルでは支持されません。これが結局呉三桂が失敗した原因となります。馬太后の予言は当たったのです。

 呉三桂は、同じ問題を抱える平南王尚氏、靖南王耿氏と同盟し清に対し挙兵しました。清軍の正規兵八旗兵は精鋭ですが数は少なく、北京と華北を抑えるのがやっとでした。さすが歴戦の勇士呉三桂雲南、貴州を固めると北上し四川、湖北、江西、福建と華南のほとんどを占領します。康熙帝は八旗兵だけではこの大反乱を鎮圧できないと悟り、漢人からなる緑営を動員します。緑営は最終的に40万にも及びました。また康熙帝イエズス会宣教師フェルビースト(南懐仁)に命じ大量の軽火砲を製造させ、部隊に配備します。

 反乱が成功するためには民衆の支持が不可欠です。ところが呉三桂は、明朝最後の皇帝(永暦帝)を殺した悪人として多くの漢民族から憎まれていました。いくら一時的に勢いが強くとも、いずれはそれが止まる時が来ます。1676年陝西の攻防戦で呉三桂が敗れたことで陰りが生じ、清軍は盛り返します。各個撃破されまず1676年10月靖南王耿精忠が、次いで12月には尚之信が清に降伏しました。

 孤立した呉三桂でしたが、1678年3月湖南の衡州で皇帝に即位し、国号を大周と定めます。これは最後の足掻きでした。同年8月15日67歳で死去、反乱は呉三桂孫呉世璠に引き継がれます。反乱軍は態勢を立て直すために本拠雲南に撤退、これを追った清軍は1681年呉世璠を殺しようやく長きにわたった反乱は鎮圧されました。

 1683年には台湾を平定、康熙帝によって再び支那は統一されます。この年、シベリアに進出してきたロシアと国境紛争が起こりました。1689年ロシアとの間にネルチンスク条約を締結し国境を画定します。1696年にはモンゴル高原に遠征しジュンガル部のガルダン・ハーンを撃破、チベットにも介入しました。

 康熙帝の治世は61年、この間清の領土がほぼ確定します。康熙帝は外征だけでなく内政にも力を尽くし自らは倹約、国庫を富ませました。文化事業にも熱心で康煕字典など多くの功績を残します。イエズス会宣教師を招き西洋の文化にも触れました。彼らの作った皇輿全覧図は支那史上初の全国実測地図でした。1722年康熙帝崩御、享年68歳。

 以後雍正帝乾隆帝と続きこの三代が清朝の黄金時代だと言われます。




 次回、絶頂期乾隆帝の治世と清朝の暗雲を描きましょう。