
しかし、よくよく調べて見ると景時は忠臣であり任務に忠実であっただけだと私は考えます。義経を讒言したというのも、頼朝の命令に逆らって勝手に後白河法皇から官位を貰ったのは義経の方だし、義経の勝手を許すと鎌倉の武士政権自体の存立にもかかわるのですから当然です。
ただ景時の場合、あまりにも真面目過ぎて融通が利かなかった事は事実です。それが他の御家人から憎まれた原因だと思います。このあたり、石田三成とかぶるんですよね。有能な官僚であった事も、融通が利かなかったところも(苦笑)。
景時と頼朝の出会いは、1180年の石橋山の合戦でした。当時平家方の大庭景親に属していた景時は、敗北し山中に隠れていた頼朝一行捜索隊に加わります。
しかし頼朝の将来性に賭けた景時は、頼朝を発見しながらもあえて見逃しました。これが縁で再起した頼朝に仕える事になったのですが、頼朝もただ命の恩人だから重用したわけではありません。
景時が坂東(関東)には珍しい教養人で実務能力が優れていたのが信頼されての事です。
景時の有能さを表すエピソードがあります。景時が木曽義仲追討軍に参加していた時の事。鎌倉の頼朝のもとに合戦に勝利したとの報告がもたらされます。
しかし御家人たちの報告書にはただ「勝利しました」の言葉のみで具体的な事は何も書かれておらず頼朝はいらいらしていました。そこへ景時からも書状がもたらされます。
頼家は体の良い飾り物になったわけですが、短慮にも自暴自棄になり酒に溺れたり御家人の妻を奪うなど暴虐な行為をくりかえします。これがますます人心を離れさせました。
あるとき有力御家人の一人、小山朝光(結城朝光、結城家の祖)が鎌倉御所内で亡き頼朝の思い出を語っていました。
「忠臣は二君に仕えずというが、あの時(頼朝が死んだ時)出家しておくんだったなあ。今の世は薄氷を踏むような思いがする」
余談ですが、この連判状を誰も執筆する事ができず公事奉行人の中原仲業(中原親能の家人出身)に頼んで起草してもらったという笑えない話もあります。
頼家はこれを読むと、さっそく景時を呼び出しました。書状を読んだ景時は「全くの濡れ衣だ」と弁明しますが頼家は信用せず、景時は鎌倉を追放されました。
大江広元は景時が無実だと知っていましたし、彼を失うのは幕府にとって損失だと分かっていましたが、御家人たちの空気が景時弾劾に傾いている中での抵抗を諦めました。ここで景時を弁護すると自分の地位も危ないと踏んだのです。
一方、頼家はやっと将軍の権威を示せるとばかり景時に対し厳しい処置をします。物事の真偽も確かめず損得も考えない大馬鹿者ともいえますが、もし頼家が景時を助けようとしても無駄だったでしょう。これには大きな陰謀が渦巻いていましたから。
頼家は鎌倉にある景時の屋敷を打ち壊させ、景時が持っていた播磨と美作の守護職を取り上げました。1200年正月、景時は鎌倉を追放され一族郎党を率いて上洛を図ります。
頼家は報告を受けると京都への沿道の御家人たちに梶原一族追討を命じました。
では、この事件の黒幕は誰だったのでしょうか?いくら御家人たちが景時を憎んでいたとはいえ、連判状一つまともに書けない連中にそれができたでしょうか?
黒幕の存在を匂わせる一つの事実があります。最初に小山朝光に陰謀を伝えた阿波局。実は彼女、北条時政の娘(政子の妹)なのです。
朝光謀反の疑いがなければ、そもそも景時追討の動きは存在していません。また梶原一族は駿河で討ち取られますが、秘かに関東を脱出した梶原一族に駿河という近郊で追いつくには待ち構えていないと難しいでしょう。そして、地元の武士にそれを命じる事ができる駿河の守護は北条時政。
彼こそ恐るべき陰謀家といって良いかもしれません。そして時政の凄みは次に書く予定の「比企の変」でも遺憾なく発揮されます。