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日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅲ 南北朝期の安東氏

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載
 
 最初に、前章で書き忘れた事を…。
 
 安東一族を大動乱に巻き込んだ蝦夷大乱。その引き金になったのは津軽蝦夷の反乱と鎮圧に失敗した安東氏当主の討死だと書きました。
 
 これには異説があり、元のギリヤ-ク部征服、樺太侵攻に抵抗した樺太アイヌを率いたのが安東氏ではなかったか?といわれているんです。討死も1275年の出来事。元のフビライ汗が南宋を征服したのが1276年。元寇で言えば文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間。
 
 とすれば安東氏はフビライ汗の日本侵略の一環としての北方攻撃に対して抵抗したのではなかったか?という見方です。この異説はなかなか魅力があります。しかも討死したのは又太郎季長の父貞季か祖父安東五郎(名は不詳)だったとされます。
 
季長と従兄弟の五郎三郎季久との家督争いもこの戦後処理を巡る方針の違いが原因だとされるのです。とすれば季長は処刑されなかった可能性もあります。北からの元寇を防いだ大功労者の息子(あるいは孫)ですからね。
 
 後で出てきますが、嫡流の檜山安東氏(下国家)に対する庶流湊安東氏(上国家)の祖が季長ではなかったかと異説は続きます。鎌倉幕府の裁定で蝦夷管領こそ季久に与えられますが、その代わりに北条得宗家の領地であった秋田(土崎)湊と男鹿半島の地頭代に季長あるいはその子孫を充てたともいわれています。
 
 一般には湊安東氏の初代は室町時代の鹿季(季久の曾孫)だといわれています。1395年兄盛季の命令で出羽秋田郡に分家し上国湊安東氏を名乗りました。
 
 ただ分家にもかかわらず、湊安東家が足利義満に優遇され京都扶持衆(将軍家の側近)となっているなど不自然な点が多いのです。これは室町幕府が安東氏の力を削ぐためにあえて分家を優遇したと説明されていますが、一方湊安東氏の祖が本来の嫡流季長で鹿季はそこへ養子に入っただけだとするなら納得できますし、一番自然なんです。
 
 私の調査でもはっきり分かりませんでした。一応こういう異説もあるということで読み進めてください。(近年の研究では季長を上国湊安東家の祖とする説が有力とのこと)。
 
 
 ところで蝦夷合戦と鎌倉幕府の裁定で蝦夷管領・安東氏家督を手に入れた季久ですが、又太郎宗季と同一人物であろうという説が有力です。彼が下国(しものくに)安東氏の祖となります。
 
  
 安東宗家下国安東宗季は本拠を十三湖北岸の福島に定め現在の青森から北海道に渡る広大な所領を受け継ぎました。しかし彼の人生は後半も安泰ではなかったのです。
 
 1333年、頼みの綱である鎌倉幕府が滅亡します。北条得宗家と深く結びついていた安東氏にとっては寝耳に水でした。
 
 北条得宗領であった糠部郡、外ヶ浜は建武政権によって足利尊氏に与えられます。しかしまもなく尊氏は建武政権に離反、今度は北畠顕家陸奥守・鎮守府将軍として奥州に乗り込んできました。
 
 この政治の混乱期に安東氏は、足利方に対しては所領を建武政権に安堵されたと主張し、顕家には所領を尊氏に安堵されたと主張するなどどっちつかずの対応をしました。もともと北条得宗家の御内人ということで両陣営に心証が悪かったのですが、曖昧な態度はかえって顕家の怒りを買いました。
 
 顕家は腹心の南部又二郎師行を糠部郡、成田頼時を鹿角郡、平賀景貞を津軽郡の郡奉行に任命し安東氏ら旧鎌倉幕府御家人の封じ込め政策を行います。
 
 陸奥守顕家は「たとえ鎌倉幕府の下文を持っていても陸奥国府発給の国宣を持っていなければ所領と認めない」と陸奥の豪族たちに厳命しました。
 
 宗季の子高季は、ただでさえ所領を建武政権に奪われ陸奥では津軽半島に押し込められる形になっている上に、本領の津軽さえ危ういという泣きっ面に蜂状態に陥ります。高季は信濃から来た他所者の津軽郡奉行平賀景貞の命に従い北条氏残党の蜂起の鎮圧に駆り出されるなど涙ぐましい努力をします。それでもやっと津軽本領安堵だけなのです。
 
 ところがそれさえも陸奥国府側に付いた武士たちだけが優遇され恩賞も不公平に分配されます。安東氏だけでなく地元の豪族たちは建武政権に対して不満を持ち始めました。
 
 北条残党の蜂起を鎮圧した顕家は腹心の南部師行とその一族に外ヶ浜と津軽の諸郷を恩賞として与えます。これらは元々安東領だったところです。顕家は安東氏の力を弱めるために安東氏の本拠津軽にも楔を打ち込み始めました。
 
 南北朝の動乱が本格的に始まり足利方の奥州総大将斯波家長が下向してくると安東一族はこぞって味方に付きます。南朝方の南部氏に対抗するという意味もあったでしょう。
 
 1336年、安東家季(高季の弟)を津軽合戦奉行に任命し南部氏の根拠地根城を攻撃させるなど斯波家長は安東一族を優遇します。家長が鎌倉に去り、新しい奥州総大将として石塔義房が赴任してもそれは変わりありませんでした。
 
 結局安東一族のこの選択は、生き残り策としては成功します。南朝側に付いていても未来は無かったでしょう。
 
 しかし、南朝側に付いた南部氏とは中央で南北朝合一が成っても変わらず血で血を洗う抗争が続きました。
 
 次回は宿敵南部氏との抗争を描きます。