画像は現在の十三湖の地図です。当時はもっと湖は南に大きく広がっていたそうです。十三湊は地図でいうとちょうど湖を塞ぐように伸びた半島状の地形の内側。十三局のある県道12号線の走る当たりです。
安東氏の本拠は湖北岸の福島城。もともとは蝦夷=日高見国時代から防御性集落があったとされ14世紀初頭に安倍(安東)貞季が本格的築城をしたとされる平城です。
当初安東氏の本拠は十三湊にあり、大津波で滅びたために本拠を移したのではないかと私は睨んでいます。
さて安東氏ですが、頼朝の藤原氏征伐以降奥州には鎌倉御家人が恩賞として各地を賜ります。安東氏の本拠津軽地方も例外ではなく内陸の内三郡(平賀、鼻和、田舎)、太平洋沿岸の糠部郡、久慈郡、閉伊郡、出羽国平鹿郡、山本郡が北条得宗領(北条義時、泰時の子孫で北条家嫡流)とされるなど旧安東氏領は削られます。
もともと純粋な武士団ではない安東氏は、しかしこれで農業生産力に頼る方向での発展は望めなくなりました。本分である交易一本で進む以外の選択肢を失います。
調べてみると越後、越中、能登、加賀の守護は北条一門、若狭に至っては北条得宗家が守護です。安東氏は北条得宗家の御内人として蝦夷管領に任ぜられます。蝦夷沙汰職、蝦夷代官とも呼ばれ流人達の送致、監視が主な役目で蝦夷との交易にも関与したといわれています。これは安東氏でなければできない仕事でした。
安東氏は北条得宗家の庇護の下繁栄を極め、蝦夷管領の職掌を現地で適用するために日乃本将軍を名乗ったといわれています。日乃本とはもちろん日本の事ではなく日高見国にちなむ名前でしょう。のちには京の朝廷でさえ認める呼称となりました。
ユーラシアに広大な帝国を築いたモンゴル、そしてその宗主国であった元朝は世界各地に侵略の手を広げます。日本にも元寇という形で具現化したのですが、一方元は元寇以前にもアムール川(黒竜江)下流地方に出兵しています。
これはフビライ汗が鷹を好み、その産地であるアムール川下流地域を征服したいという身勝手な理由が発端とされ征服されたギリヤ-ク部の人たちにとっては迷惑この上なかったと思いますが、その侵略の過程で樺太にも元軍が来たらしいのです。
安東氏の交易ルートがこのあたりまで広がっていた傍証になると思います。元の支配は貿易で成り立っている安東氏にとっても都合が悪かったのでしょう。元のギリヤ-ク部征服でシベリヤ沿岸、樺太に住むアイヌ、オロッコなどの諸族がより安全な北海道地方に下ってきた可能性を指摘する研究者もいます。
争いの原因は執権北条高時がお気に入りの季久のために季長から蝦夷管領の職を取り上げて彼に渡した事だといわれています。続発する蝦夷の反乱を季長が鎮圧できないというのが表向きの理由でした。蝦夷管領は安東氏嫡流が世襲していたためこれは大問題になり両者は鎌倉で訴訟合戦になりました。
安東氏の所領は津軽平野の一部から津軽半島全域(外三郡)、下北半島全域、日本海沿岸の西浜地方、北海道という広大なものでした。それに蝦夷管領としての莫大な交易の利もかかってくるのですから両者とも引くに引けなかったのでしょう。
当主同士が鎌倉で不毛な訴訟合戦を繰り広げている間に、現地陸奥では家人同士が合戦沙汰に及んでいました。それに蝦夷が加わって手のつけられない状態になります。賄賂合戦では結局季久が勝ったようで季長が叛徒とされたようです。
しかし反乱はこれだけでは収まらず季長の郎党安東季兼が残党を率いて再び挙兵。翌1327年幕府は関東から大軍を編成して討伐軍を送る羽目になりました。
この合戦は奥州合戦とも呼ばれ地の利に明るい安東勢のゲリラ戦に悩まされ関東の名ある武士も多数討死するほどの激戦だったと伝えれます。1328年ようやく両者は和睦し戦は収まったそうですが、元寇とこの奥州合戦によって鎌倉幕府は衰退しました。
和睦の条件は不明ですが、季久系に安東家督を認める代わりに季長系にも配慮した内容だったと推定されます。残党が出羽秋田湊から男鹿半島に領地を得たといわれていますから、湊(上国系)安東家との関係も指摘されています。
次回、南北朝期の安東氏にご期待ください。