
南部氏の鎌倉府接近は安東氏の京都接近を促しました。外交感覚に鋭敏な南部守行はどうも鎌倉府の将来性が暗い事に気付き始め、1418年嫡子義政を上洛させ将軍足利義持に拝謁させます。献上品も莫大なもので奥州の名馬百匹金一千両でした。
これにより義の字を賜り将軍扶持衆になるなど三戸南部氏は外交攻勢でも安東氏より優位にたちます。安東方の扶持衆は嫡流の十三湊下国安東氏ではなく庶流の上国湊安東氏ですから。ただ安東氏側も手をこまねいていたわけではなく海外交易で得た珍奇な財宝をせっせと将軍家に贈り外交戦でも火花を散らします。
安東方はどうも本家と庶流の上国湊安東家が協力して当たっている節が見られません。南部氏とは敵対しながらも互いに家督継承にまつわる感情的なしこりを拭い去れなかったようです。やはり湊安東家が蝦夷騒乱で負けた旧嫡流家季長の子孫という説はあながち間違いではなかったように思えます。
安東嫡流の当主盛季の没年には1414年、1423年、1442年説がありますが子の康季への継承がいつ行われたかもはっきりしません。1420年代には盛季が隠居し当主としては康季が立っていたとして話を進めましょう。
1423年、足利新将軍義量(よしかず)が立つと安東康季は賀詞とともに名馬三十匹、鳥五千羽、中国古銭二万貫、海虎(らっこ)皮三十枚、昆布五百把という莫大な献上品を贈りました。自分の本拠が危うい中でよくそんな余裕があるなと不思議に思いますが、劣勢を挽回する為に藁をも掴む心境だったのかもしれません。
康季はこの功績で陸奥守に任ぜられますが、もはや実績を伴わない虚栄でした。1425年将軍に就任したばかりの義量は19歳の若さで急死します。前将軍義持も1428年43歳で死去し六代将軍は籤引きで三代義満の三男で天台座主だった義円が選ばれました。還俗して義教と名乗ります。
1432年南部勢は安東氏の本拠福島城を攻略しました。安東一族は津軽半島突端にある詰めの城柴崎城に落ちのびます。
しかしさすがにこれは新将軍義教の怒りを買いました。自分の権威を蔑にするような振る舞いだったからです。義教は御教書で両者に和睦を命じ康季の妹を南部義政に嫁がせることに決まります。これでようやく康季は本拠福島城を取り戻しました。
1441年将軍義教は嘉吉の乱で横死してしまいます。これを受けて南部氏の津軽侵攻は再開されました。地元の伝承では妹婿の義政が偽って福島城を訪問し謀略で乗っ取ったともいわれますが、さもありなんと思います。
南部方はこれを鎮圧するために六千余騎を集めたとされますが、当時の石高を考えるとさすがにこれは誇張だと思います。騎馬武者に従者三人がついたとして二万四千の大軍になりますから。ただ数千の軍勢だった事は間違いありません。
政季に安東宗家継承を説いたのも武田信広、相原政胤、河野政道の三人だったと伝えられます。政季は十二館を三つの地域に分けました。
志苔館(函館市)を中心とする下の国には弟の八郎家政を、花沢館を中心とする上の国には一族の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)を、大館(松前町)を中心とする松前には一族の下国定季をそれぞれ守護職とし分割統治します。
この頃宗家滅亡で南部氏の圧力を直接受けるようになった秋田の湊安東氏は南部方の小野寺氏、戸沢氏の侵略に苦しめられていました。そこで湊安東家の当主惟季(これすえ)は、蝦夷ヶ島の政季を出羽北部河北郡に招き入れます。
もちろん河北郡は無主の地ではなく南部方の葛西氏の庶流が領主としていたそうですが、勢力が比較的弱かったのでしょう。政季はこれを滅ぼし檜山城(秋田県能代市)を築城してここを本拠としました。下国檜山安東家の成立です。
ここで目を蝦夷ヶ島(北海道)に転じましょう。アイヌと和人である渡党の対立は決定的なところまで来ていました。収奪に耐えかねたアイヌは渡島東部の族長コシャマインを中心についに蜂起します。これに道南の全アイヌが呼応し一揆勢は一万を超えたといわれています。1457年の事です。
一介の交易商人が上の国守護ですからたいへんな出世ですが、アイヌの蜂起を恐れる十二館の諸将は蝦夷ヶ島全体の支配を信広に委ねたいと考えます。野望を持った信広の工作で諸将を動かした可能性は高いですが、信広は松前に入り蝦夷ヶ島全体の守護を名乗りました。
檜山城の政季はこれを黙認するしかありませんでした。武田改め蠣崎信広はしかし完全独立することはせず檜山下国安東家の代官としての立場を明確に打ち出します。この方が支配に都合良かったのかもしれません。
これ以後もアイヌの蜂起は散発的に続きます。蠣崎氏は騙し討ち(和睦の酒宴に誘い出して謀殺など)を繰り返して蝦夷ヶ島を保ち続けました。簡単に騙されるアイヌ側もどうかと思いますが、それだけアイヌの人たちが純朴だったのでしょう。
一方、流人上りの渡党は人間がすれていたばかりか悪も平気で成すような精神性だったのかもしれません。
次回は、檜山安東氏の発展、英雄安東愛季(ちかすえ)の活躍を描きます。