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鎌倉幕府滅亡   Ⅴ 鎌倉炎上(最終章)

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 鎌倉幕府は、最初源氏将軍が創始し、執権北条氏にとって代わられ、北条氏内部でも得宗家(嫡流)による専制体制に移行するともに執権政治さえ形骸化したということはすでに述べました。
 
 滅亡時、幕府の最高権力者は得宗家の家人にすぎない御内人である家宰、内管領長崎円喜入道でした。
 
 得宗北条高時を操り御家人でもないのに侍所別当という要職も占めるほどでした。1316年には内管領の職を嫡子高資に譲りましたがまだまだ隠然たる実力を保っていました。
 
 この長崎親子が有能なら幕府も北条氏もまだまだ生きながらえる事が出来たかもしれません。ところがこの親子は、たしかに政略には長けていましたが訴訟の当事者双方から賄賂をとりその多寡で判決を決めるなどの出鱈目な政治を繰り返しました。
 
 陸奥ではこのおかげで蝦夷大乱と呼ばれる大反乱が起こります。もともとは安東(安藤)氏の家督争いが原因でした。ところが長崎高資は訴訟の当事者である安東季長、季久双方から賄賂をとり、どちらからも不満を持たれる裁定をくだしたため、両者引っ込みがつかなくなり合戦沙汰に及んだものでした。
 
 
 おそらくこのようなケースは大なり小なり数多くあっただろうと想像できます。一方北条高時は、政治を投げ出し田楽や犬追物、酒宴に明け暮れた暗愚の人物として描かれます。しかし私が考えるのは、政治の実権を奪われ遊び呆けるように長崎親子に仕向けられただけだという気もするのです。
 
 
 
 元寇後の御家人たちへの恩賞も遅々として進まず、西国を中心にようやく貨幣経済が浸透してきた中で兄弟で均等に所領を相続する御家人たちは、代を重ねるごとに困窮する者が続出しました。幕府は御家人の土地の売買を禁止したり徳政(借金帳消し)などの対策を打ち出しましたが、根本的解決には程遠いものでした。
 
 
 お金を貸しても徳政でチャラにされる恐れがあれば、だれも御家人にお金を貸さなくなります。貸す場合は高利貸し、これらはますます御家人の困窮に拍車を掛けました。
 
 
 頼朝の鎌倉開府以来140年余り、鎌倉幕府の歴史的使命は終わろうとしていたのです。
 
 
 
 鎌倉幕府のお膝元、関東の地にも後醍醐天皇の綸旨は届いていました。同じ源氏の足利氏とは兄の関係でありながら、頼朝挙兵のとき反抗したため幕府内では無位無官であった新田氏も綸旨を受け取りました。
 
 当主新田小太郎義貞は、優遇されていた足利氏とは違い幕府に冷遇され続けた恨みを持っていました。それに加えて近年の軍事負担に何の見返りもなかったことからついに挙兵を決意します。
 
 
 1333年5月8日、本拠の上野国新田荘で義貞はついに兵を挙げます。ただこの時は一族郎党合わせて数百騎ともいわれるわずかな兵力にすぎませんでした。
 
 しかし時代の流れだったのでしょう。六波羅探題滅亡の噂は関東にも入ってきていました。義貞が上野守護代の軍勢と戦った時には近隣の御家人が次々と新田軍に参加し一守護代の手に負えない勢力に膨れ上がってきていたのです。
 
 守護代軍を撃破し、新田軍は鎌倉を目指して南下します。上野から越後に散らばる新田一族や、関東各地の御家人たちが参加し数万の大軍に膨れ上がっていました。足利高氏は義貞一人に功を奪われるのを恐れ嫡子の千寿王(のちの二代将軍義詮【よしあきら】)を大将に奉じた足利勢をこれに参加させました。
 
 
 新田軍は義貞が総大将であるはずなのに、千寿王参加によってまるで足利高氏の命令で動いているような奇妙な格好になります。官位の上でも実力でも足利氏の方が上だったからです。ただこのおかげで有力御家人の参加が増加したので義貞としては痛し痒しでしたが…。
 
 
 新田軍南下の報告を受けた幕府は、まず北条一門の桜田貞国に軍勢を与えて防がせます。両軍は入間川と柳瀬川の間の平原である小手河原でぶつかりました。義貞はこれを鎧袖一触、高時の弟泰家の率いる幕府軍主力と武蔵分倍河原に対峙しました。
 
 
 幕府側も分倍河原を破られれば後は鎌倉まで一直線です。そのため必死で戦います。激戦の末これを破った新田軍はついに鎌倉に達しました。
 
 
 
 鎌倉は三方を山に、一方を海に囲まれた難攻不落の要害です。陸路から鎌倉に入る七口は切通しと呼ばれる断崖で、幕府軍が守りを固めていたため市街に突入するのは容易ではありませんでした。
 
 
 伝説では義貞は龍神に宝刀を捧げ、稲村ケ崎(鎌倉西南部)の海岸が干潮で砂浜に道ができたと所を突破して鎌倉に入ったと伝えられます。
 
 
 どちらにしろこのころ関東の有力御家人が新田軍に次々と参加し大軍に膨れ上がっていましたから鎌倉突入は時間の問題ではありました。
 
 
 市中に突入してしまえば兵力差が大きくものをいいます。寡兵の北条勢は次第に追い詰められはじめました。新田軍は鎌倉各地に火を放ち市街は阿鼻叫喚の地獄図となりました。
 
 
 北条高時は最後の時が来た事を悟ります。一族郎党を北条氏累代の墓がある菩提寺東勝寺に集めました。一族や御内人の姿を見ると一人として傷を負っていないものはありません。これらの人は主君高時の前で腹を切ります。あるいは親子で刺し違えて果てました。
 
 一族郎党の死を見届けると高時も自刃しました。享年31歳。暗愚といわれ後世散々叩かれましたが、最期の見事さはどうでしょう。彼もまた鎌倉武士であったと思わざるを得ません。
 
 この時、高時の嫡男邦時と次男時行はそれぞれ忠臣に守られながら鎌倉を落ちました。この幼い兄弟もまたのちに鎌倉武士の意地を見せる事となります。
 
 
 高時と行動を共にした者は数百人にも及んだと伝えられます。紅蓮の炎は東勝寺を包みました。鎌倉幕府百五十年の歴史はここに閉じます。1333年5月22日の出来事でした。
 
 
 千早城では大仏高直(おさらぎたかなお)率いる幕府軍楠木正成との戦いが続いていました。幕府軍六波羅陥落の報を受け奈良興福寺に立て籠っていましたが、鎌倉まで落ちた事を知り6月に全軍降伏しました。高直以下幕府軍首脳はことごとく処刑されます。
 
 
 
 
 鎌倉幕府滅亡によって、はたして平和は訪れたのでしょうか?間もなく後醍醐天皇によって建武の新政が開始されますが、これは初めから矛盾を抱え込んだものでした。というよりむしろ鎌倉末期の矛盾を失政によって拡大増幅しただけだともいえます。
 
 
 
 
 時代は足利高氏の離反、南北朝の動乱期に突入していきます。地方においては南北朝合一、室町時代に入っても常に戦乱が続きました。それは豊臣秀吉が天下統一し、さらに徳川家康江戸幕府開設まで続いたという解釈も成り立ちます。
 
 
 鎌倉幕府滅亡は、大動乱に突入する終わりの始まりだったと言えるかもしれません。