鳳山雑記帳はてなブログ

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土佐と備中における守護・細川氏

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載
 ちょっとマニアックな記事で非常に恐縮なのですが、戦国時代の土佐でなぜ長宗我部氏が台頭したか調べていたんです。
 
 すると長宗我部氏はもともと南北朝時代から土佐守護細川氏の被官として活躍し、室町時代も細川家の威光を背景に土佐中央部に君臨し(守護代的立場か?)、権勢を誇っていた事が分かりました。
 
 細川家が中央の争いで土佐に構っていられない状況になった時、事件は起こりました。細川家の力を頼んで驕慢の振る舞いあった長宗我部兼序は土佐諸豪に憎まれていたため、連合して攻められ一時滅亡したのです。兼序が本山氏をはじめとする土佐諸豪に攻め滅ぼされたのが1508年。丁度後ろ盾だった管領細川政元が暗殺された一年後というのも象徴的ですね。以後土佐は細川氏の支配が及ばなくなり七人守護とよばれる土豪が台頭する戦国時代に突入したそうです。
 
 
 普通守護家がしっかりしていれば、たとえ勢力が衰えたとしても有力豪族の傀儡として命脈だけは続くものですが、どうも土佐では細川家自体が雲散霧消したような印象です。
 
 どういうことなのか調べたところ、歴代土佐守護は京兆家の当主が他の守護と兼任するか野州家や阿波細川家から入ったようで継続支配していたわけではないようです。とすれば長宗我部氏は土佐に土着しているわけではない細川氏の不安定な権力に依存していたわけで、脆弱な基盤しか持ち得なかったのでしょう。かといって守護代になれるほどの実力も無い。とすれば兼序時代の一時的滅亡はあり得べき必然だったのかもしれません。
 
 
 これは備中細川家にも言えるようです。一応備中に土着の勢力を築いていたようですが庄氏などの有力国人の力が強すぎて勢力を広げられなかったようです。さらには細川京兆家をはじめとする一族の介入もあり安定した勢力には成長できませんでした。
 
 
 また分かりにくいのは、細川野州家も備中浅口郡と伊予宇摩郡分郡守護を務めていたそうですからこちらとの力関係はどうなっていたのでしょう?ウィキなどで見ると野州家の細川政春(細川高国の実父)が備中守護を務めていますから、この時代には備中細川家はすっかり没落していたのかもしれません。
 
 政春の後、備中守護はしばらく任命されていないそうですから、備中もまたこの時以降戦国時代に突入したのでしょう。
 
 戦国時代尼子晴久に攻められて備中家最後の当主通政が伊予に逃亡したとありますから、細々ながらは生き伸びていたのでしょう。その後甥か子か不明ですが、通重という者が備中奪還を図りますが失敗、最後は毛利家に仕え幕末に至ったそうです。
 
 ウィキでは通政を野州家としていますが、この系図を信じる限り備中家です。
 
 
 
 こうして見てくると細川一族は多くの国の守護を務めましたが阿波・讃岐・淡路・和泉などを除くと継続支配はできなかったようです。これは他の守護家も同様で複数の守護領国を持つ大名でも大内氏などのように領地が隣接していなければその勢力を保つのは難しかったということでしょう。
 
 山名家の場合は隣接していたのですが、逆に一族での分割統治を徹底しすぎたため共倒れになったケースだと思います。