鳳山雑記帳はてなブログ

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大淀型軽巡洋艦

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 日本海軍が建造した最後の軽巡洋艦。大淀一隻しか建造されなかったにもかかわらず大淀”型”としたのは二番艦として仁淀の建造が予定されていたからです。仁淀は対米開戦により建造中止になりました。
 
 もともと大淀型は乙巡(軽巡)ではなく丙巡(偵察巡洋艦)と区分されていた通り、潜水艦隊の旗艦として水上偵察機6機を搭載し、漸減作戦のために広範囲の索敵能力を持つ艦になるはずでした。
 
 ところが搭載予定だった肝心の高性能水偵「紫雲」が開発中止になり、大淀の運用計画は大きく狂います。紫雲が駄目なら零式水偵でもいいんじゃない?と考えるのは素人考えでしょうか?
 
 まあどちらにしろ、軽巡で一番必要にされたのは防空軽巡でしたから優先度が低かったのは事実ですが…。
 
 戦局が悪化し、戦艦や空母が不足してくると、海軍はこの大淀に目をつけます。もともと潜水艦隊旗艦として建造されていたため通信施設が充実していたのです。大淀は紫雲の格納庫を改装して司令部設備を造り連合艦隊旗艦になりました。これはのちの指揮専用艦のはしりだったのかもしれません。
 
 といいますのも大淀は日本海軍の艦艇としては珍しく魚雷を搭載していないのです。そのかわり長10サンチ高角砲を連装×4基8門という秋月型防空駆逐艦並みの防空力をもちます。
 
 
 大淀が連合艦隊旗艦となったのは1944年5月4日から9月29日まで。しかしそれも燃料の不足、動ける艦艇は一隻でも多く前線に送るべきだとの考えから、司令部は慶應義塾大学日吉キャンパスの地下壕に移転、大淀は旗艦の任務を解かれます。
 
 その後レイテ沖海戦礼号作戦北号作戦に参加、呉軍港に停泊していた1945年7月28日米艦載機の空襲を受け転覆着底。悲運の生涯を終えました。
 
 
【艦歴】【性能諸元】
発注1939年マル4計画
起工1941年2月14日 呉工廠
進水1942年4月2日
就役1943年2月28日
その後1945年7月28日に戦没
除籍1945年11月20日
排水量基準:8,146t 公試:9,980t
全長180m
全幅16.6m
吃水6.0m
主缶ロ号艦本式缶6基
機関艦本式オールギヤードタービン:4基4軸推進(出力11万馬力)
速力35.5kt/h
航続距離8,700海里(18kt/h)
乗員730名
兵装60口径三年式15.5cm3連装砲:2基(前方のみ)
65口径10cm連装高角砲:4基
25mm三連装機銃:6基/18基(最終時)
25mm単装機銃16基(最終時)
航空機水上偵察機6機(改装後2機)
二式一号一〇型射出機1基(改装後呉式二号五型射出機1基)