鳳山雑記帳はてなブログ

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英彦山(ひこさん)七年戦争  大友義統の侵略を撃退した霊山

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 福岡県田川郡添田町大分県中津市山国町にまたがる修験道の聖地、英彦山(ひこさん)。出羽羽黒山、熊野大峰山とともに日本三大修験山として有名です。
 
 実は英彦山は、比叡山高野山がそうだったように戦国時代には三千の僧徒と八百の坊を誇る一種の宗教独立国家を成していました。鎌倉時代の初代座主長助法親王は光巌天皇の弟で、代々その子孫が座主を受け継ぎます。初代長助法親王豊前宇都宮氏の娘を妻に迎えたをはじめ歴代座主は武家と結ぶことで権力の基盤としました。これによって英彦山の力は宗教界ばかりではなく世俗にも強い影響力を持つことになります。
 
 
 このあたりの歴史は、肥後の阿蘇氏や信濃諏訪氏と似ています。ただ英彦山座主が阿蘇氏、諏訪氏らと異なる点は武士団化せず、あくまで宗教的権威を第一としたところです。
 
 戦国時代の北部九州は、大内、大友、竜造寺とめまぐるしく支配者を変えました。十四代座主舜有(しゅんゆう)は近隣の筑前古処山城主秋月種実と結ぶことでこの難局を切り抜けようとします。天正七年(1579年)両家の間に盟約が交わされました。
 
 すなわち男子のいない座主舜有の養子に種実の三男竹千代を迎え、座主家からは二名の人質を秋月家に送るという内容でした。これを聞きつけた豊後の大友義統(父宗麟から家督を譲られていた)は、向背が定まらない秋月種実と英彦山が結べば一大事とばかり、自分の弟三位公を養子にして座主を継がせろと強引に申し込みます。
 
 困った舜有は、「座主は始祖以来の血統のものに限らている」とこれを拒否し、代わりに自分の娘を秋月種実の嫡子種長と婚姻させ、その間に生まれた子に後を継がせるということで大友氏に乗ぜられる隙をなくしました。
 
 しかしこれを知った大友義統は烈火のごとく怒り、天正九年(1581年)二万の大軍を率いて英彦山に押し寄せます。かつて大友宗麟に居城を追われ父を殺された恨みがある秋月種実は大友方を離れ肥前の竜造寺と組んでいました。この時も英彦山を助けるため援軍を派遣します。
 
 
 衰えたりとはいえ一時は九州六カ国を領した大友軍は、英彦山に激しく攻撃を加えますが地の利を生かし必死に防戦する山側を攻めあぐねます。秋月軍も肥前竜造寺の援軍と共に筑後から豊後の入り口日田の境にある針宮(くぐみや)で大友軍と戦いました。
 
 英彦山を完全に屈服できなかった大友軍は、一時兵を引きますがその後幾度となく英彦山に攻め込みました。両者の争いは豊臣秀吉が1587年九州に侵攻するまで続きます。英彦山・秋月連合軍は竜造寺、島津と主人を変えながらも反大友という点では一貫していました。その間舜有は秋月種長と舜有の娘の間にできた昌千代(娘)に公家日野忠有を婿養子に迎え後継ぎとしていました。
 
 しかし秀吉の大軍の前には、ついに力尽きました。秋月が降ると英彦山も抵抗を諦め、罪を謝するため山を降り秀吉のいる肥後南関に赴きます。この時の成果がどうだったのか不明ですが、舜有は帰着するとにわかに病死してしまいました。
 
 神領はことごとく没収され座主職は断絶しました。昌千代は座主代行として悲運の英彦山法灯を守り抜きましす。筑前の領主として小早川隆景が入るとこれを保護し祈祷料として二千石寄進したそうです。その後豊前に入った細川氏、次いで小笠原氏から合わせて四百石を与えられました。英彦山は武力を放棄し純粋な霊山として今日まで生き残るのです。
 
 
 ちなみに昌千代の夫忠有を種長の甥秋月種貞としている資料もありますが、英彦山別当(座主)系図日野家の出身とありますのでこちらを採用しました。もしかしたら日野忠有が早死にし秋月種貞は再婚相手で、出家して忠有の名を継いだのかもしれませんがこのあたりは資料がなくて何とも言えません。
 
 高鍋藩初代藩主・秋月種長に男子がいなかったので昌千代と忠有の間にできた種春が養子になり二代藩主となりました。
 
 
 
 ウィキの記述が妙に具体的なのでちょっと気になります。
秋月 種貞(あきづき たねさだ、生年不詳 - 寛永5年8月2日1628年8月30日))は、日向高鍋藩の世嗣。長野種信の子。母は秋月種実の娘。正室秋月種長の娘・オチョウ。子は秋月種春(長男)。通称、釆女。
高鍋藩初代藩主・秋月種長には男子がなかったため、慶長12年(1607年)に甥である種貞が婿養子に迎えられた。しかし、病弱を理由に慶長18年(1613年)に廃嫡。代わって、種貞の長男・種春が高鍋藩の後継者となった。
その後出家し、法名彦山座主忠有と名乗った。】(ウィキペディアより)
 
 武家家伝秋月氏系図とウィキの秋月氏の記述が矛盾しているのです。忠有は何者か?二人いたのか?種貞をいったん日野家に養子に出し、その後英彦山に収まったというウルトラC的解釈もありますが、ちょっと現実性がありません(苦笑)。これは今後の研究課題です。
 
 いやいや、別資料では種春が舜有の子供だという系図も出てきたぞ?これはいったいどういうこっちゃ!保科媛さんが手に負えないはずだ(爆)。ごめんなさい、これくらいしかわからんかった。許してね~