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鎮西奉行 少弐一族 (後編)

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 大内氏の北九州侵攻は、応永の乱で当主義弘が幕府軍に滅ぼされたことで一時中断します。しかし後を継いだ弟盛見によって再開されました。少弐氏は非業の死を迎えた冬資の弟頼澄の孫にあたる満貞の時代になっていました。

 満貞は豊後の大友氏、対馬の宗氏と結びこれに対抗、まず応永三十年(1423年)九州探題渋川義俊を博多に攻め肥前に追い出してしまいます。永享三年(1431年)、大内盛見が筑前に侵攻してきました。

 要衝立花城を落した大内勢に対し、少弐・大友連合軍は筑前深江にてこれを迎撃、総大将盛見を討ち取るほどの大勝利を挙げました。しかし少弐氏の優位はここまででした。本拠筑前さえ完全に抑えきれていない少弐氏と、周防・長門を支配し石見・安芸まで進出していた大内氏では地力が違いすぎていたのです。


 永享五年(1433年)、盛見の後を継いだ大内持世が大軍を率いて再度侵攻してくると満貞は子の資嗣とともにこれを迎え撃ちますが、満貞が筑前秋月で討死、資嗣は肥前まで逃れましたが肥前与賀庄でこれも戦死します。

 残された一族は対馬の宗氏を頼って逃亡する始末でした。しかし鎌倉以来の名門である少弐氏の名前は絶大でした。対馬の宗氏をはじめ肥前の竜造寺など支援する勢力には事欠かなかったのです。

 大内氏が攻めるときには逃れ、陣を引くと再び起こって失地を回復するという繰り返しでした。しかしついに十五代当主政資が大内氏によって討たれ一時滅亡するという事態も起こりました。

 十六代資元が再興しますが、大内氏の攻勢に押され筑前を保つことができず本拠地を肥前勢福寺城(佐賀県神崎市神崎町城原)に移さざるを得なくなりました。以後滅亡までこの城が少弐氏の本拠となります。 


 もはや大内氏の優位は覆し難く、ついに資元は大内義隆に降伏します。しかし義隆に欺かれ自害に追い込まれると十七代を継いだ子の冬尚は不倶戴天の敵として大内氏を憎みぬきます。

 退勢の少弐氏を支え続けたのは重臣竜造寺家兼でした。一時は大内氏を破るほどの活躍を見せますが、主家を凌ぐほどの声望を得た家兼を猜疑した冬尚は、家老馬場頼周の讒言を入れ、家兼の一族郎党ことごとくを騙まし討ちにして滅ぼしてしまいました。

 事件のとき別の場所にいた家兼は難を逃れ筑後に落ちていきます。しかしこれによって竜造寺一族は少弐氏を離れ敵となりました。

 竜造寺一族暗殺事件は、大内義隆の謀略とも言われています。しかし柱石とも頼む竜造寺一族を讒言を容れて滅ぼすのですから冬尚の暗愚さは救いようがありません。そしてこれが少弐氏滅亡の原因となりました。


 旧臣鍋島一族の援助を得て肥前に復帰した家兼は、馬場頼周を討ち竜造寺家を再興します。生き残りで仏門に入っていた曾孫の竜造寺胤信(のちの隆信)を還俗させ後事を託すと、1546年波乱に飛んだ93年の人生を安らかに終えました。

 一族の敵である少弐冬尚を討つため、大内義隆と結んだ竜造寺隆信は天文十六年(1547年)兵を挙げます。冬尚は譜代の江上元種らを集め目達原で合戦しますが敗れてしまいました。

 永禄2年(1559年)には、本拠地勢福寺城を竜造寺勢に囲まれます。復讐に燃え激しく攻め立てる竜造寺勢の前に、さしもの堅城勢福寺城もついに落城しました。

 冬尚は燃えさかる城を背に自害、ここに鎌倉時代から続いた名族少弐氏は滅亡しました。難敵大内氏でさえ完全に制圧できなかった少弐氏でしたが、内部崩壊によって止めを刺されたのです。




 歴史の皮肉とも言えますが、名族が滅びるときは得てしてこのようなケースが多いのかも知れません。

 少弐一族興亡の歴史を眺めると栄枯盛衰の儚さを感じてしまいます。まさに、「祇園精舎の鐘の声…」ですね!