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奥州伊達一族   前編

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 

 独眼竜政宗で有名な奥州伊達氏。薩摩の島津、常陸→出羽の佐竹と同様、鎌倉時代から続く名門でありながら江戸時代まで大名として存続した稀有の一族です。

 伊達(だて)はもともと『いだて』あるいは『いたち』と呼んでいたそうです。ウィキペディアによると伊達政宗ローマ教皇に送った手紙でも「Idate Masamune」と書いていたそうですから、当時は「いだてまさむね」と本人も称していたことでしょう。

 「いだて」が「だて」にいつなったかについては不明ですが、15世紀に畿内でその読みが登場し、江戸時代を通じて「だて」と呼ばれるようになったとか。



 この伊達氏ですが、源流ははっきりしません。小和田哲男氏の「史伝 伊達政宗」では「本姓藤原氏藤原鎌足の曾孫、魚名(うおな)を経て玄孫中納言山蔭の子孫にあたる侍賢明院非蔵人光隆の第二子朝宗(ともむね)が伊達氏初代」だと述べています。これは仙台藩江戸幕府に提出した系図に基づいていて、伊達家ではそのように理解していたと小和田教授は考察しておられます。

 ほかに数説あるのですが、伊達氏が歴史上現われてくるのは1189年源頼朝の奥州征伐からです。この戦で功のあった常陸中村の領主、常陸入道念西が陸奥伊達郡(現福島県伊達郡伊達市)に領地を与えられたのが始まりとされます。


 この念西が朝宗と同一人物かどうか不明なのですが、その子孫たちは領地の名をとって伊達氏を称します。


 伊達氏が歴史上大きな存在になってくるのは南北朝時代でした。七代行朝(行宗)は南朝鎮守府将軍北畠顕家の有力武将として登場します。行朝は顕家に従って二度の上洛を果たし最後は伊達氏のルーツともいうべき常陸伊佐郡伊佐城に拠ったが、高師冬に攻められ降伏とあります。


 次の宗遠は、父と違って南朝にひたすら忠誠を尽くすのではなく、それを利用して勢力拡大に奔ります。彼が目を付けたのは隣国出羽米沢の長井氏でした。長井氏は鎌倉幕府建国の功臣大江広元嫡流置賜郡長井荘を代々領したことから長井氏を称しました。

 長井氏は北朝方だったのでそれを大義名分にした侵略でした。この時他の北朝方がなぜ援助しなかったか謎なんですが、中央はともかく地方は混沌としており北朝南朝とその時々の都合で寝返る武士が多かったという事実が挙げられます。滅ぶか栄えるかは自己責任というところでしょうか?その意味では地方では戦国時代は既に始まっていたとも言えるでしょう。


 伊達氏が長井氏を完全に滅ぼし米沢盆地を手中にするのは九代政宗(独眼竜とは別人)の時でした。1385年のことです。南北朝合一が1392年のことですから、滑り込みセーフというところでしょう。これがもし合一後だったら、足利義満の追討を受け滅ぼされていたと思います。


 伊達氏は伊達、信夫、置賜三郡の領主としてさらに周辺にも勢力を広げ、要領よく幕府に帰順します。幕府としても強大な伊達氏を滅ぼすより利用することで奥州の安定を図ろうとしましたから、両者の思惑は一致したわけです。


 伊達氏の実力が侮りがたかったことの証明は、室町中期鎌倉公方足利満氏の三度の征討を退けたことからも覗えます。当時の記録では「七千騎を集めることのできる奥州随一の武士」とされるほどでした。


 歴代伊達家当主は足利義政、義尚ら時の将軍に莫大な贈り物をしその地位を保ちました。足利将軍と鎌倉公方の対立の構図も伊達氏に利したのかもしれません。鎌倉府を後方から牽制する勢力として伊達氏は重宝がられたのでしょう。


 一四代伊達稙宗は、ついに1522年幕府より陸奥守護職に任ぜられます。それまで陸奥には守護職は置かれず奥州探題大崎(斯波)氏の所管でしたが、大崎氏は陸奥中央部の地方勢力に落ちぶれ奥州全体を抑え切れなくなっていた現状から、幕府の苦肉の策でした。


 稙宗はそれを最大限に利用し、戦争ではなく婚姻政策で奥州各地の有力豪族と結び一大勢力に成長しました。このときの勢力範囲が、子孫の独眼竜伊達政宗の最大版図にほぼ匹敵したことからも勢力の大きさがわかります。


 しかし稙宗の急速な拡大策は、嫡子晴宗や譜代の家臣たちに危ぶまれました。稙宗は晴宗の弟時宗丸を関東管領上杉氏に連なる越後守護上杉家に養子に入れようとしました。これに伊達家の精鋭百騎を付けるということでついに晴宗の不満が爆発、親子が相争う内訌に発展しました。これが世にいう『天文の乱』です。

 伊達氏が奥州各地の豪族と婚姻関係を結んでいたため伊達家だけでなく奥州一帯をまきこんだ大戦争に発展しました。戦は長期化し伊達家の勢力はこれによって大きく衰えました。

 時の将軍足利義輝の調停で、稙宗隠居、晴宗家督相続で和議がようやく成立しますが、これによって伊達家の領国は半分以下に落ち込みます。

 晴宗は、それまでの伊達家の本拠地桑折(こおり)西山城から自身の居城のあった置賜郡米沢に本拠地を移します。米沢城はその後孫の政宗の代まで伊達氏の本拠地となりました。


 晴宗の一生は、天文の乱で被った痛手を回復することに費やされます。その子輝宗もそれを引き継ぎ、独眼竜政宗の雄飛につながるのです。



 後編では、輝宗・政宗時代と仙台藩成立を見ていきたいと思います。