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奥州伊達一族   後編

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 伊達氏一六代輝宗が家督を継いだのは1563年(1564年という説も)のことです。室町幕府との密接な関係で勢力を伸ばしてきた当家でしたが、幕府の衰退はあきらかとなってきていました。

 そこで輝宗は、新興勢力である織田信長と結びます。このあたり田舎大名とは思えない慧眼ですが、輝宗の場合、どうも外交以外の能力には疑問符が付くような気がしてなりません。

 といいますのも、出羽山形の最上義守の娘(義姫)を正室に迎えていながら、義守の子義光(よしあき)の家督相続の際の内紛などに過度に介入し最上氏の恨みを買っています。よく伊達政宗を扱った小説などで最上義光は悪役になってますが、義光にしてみれば「喧嘩を売ってきたのはそっちだろ?」という言い分があると思います。

 輝宗は、義光が家督相続した後も、最上家の家臣を唆して乗っ取りを画策していますから、義光の不信感は生涯拭えませんでした。

 軽率という言葉がぴったりくるかもしれません。その最たる例が畠山義継事件でしょう。


 当時の南陸奥会津黒川の芦名氏と伊達氏の二大勢力が争っていました。中小の豪族はそのどちらかに付くか離合集散を繰り返していましたが、あるとき二本松城主畠山義継が伊達家に帰順してきます。

 義継は二本松領の半分を献上する覚悟でしたが、輝宗は愚かにもそれ以上に過酷な条件を突きつけました。子を人質に取るほか、二本松城近辺の五ヶ村しか領有を認めないと言ったのです。


 これでは畠山家は滅んでしまいます。ある覚悟を決めた義継はお礼言上のため輝宗がいた宮森城に参上しました。鷹揚にこれを迎えた輝宗でしたが、座を立って玄関まで送ろうとした時義継の家臣らに拉致されてしまいます。大名家の当主が人質となる前代未聞の事件でした。

 義継は、どうせ滅びるなら一か八かの賭けをしたのです。輝宗を人質に所領を奪い返すためとも、輝宗を土産に芦名家に駆け込もうとしたとも言われていますが、真相ははっきりしません。


 輝宗を連れた畠山主従は、自領の二本松城に向かうため阿武隈川を越えようとしていました。そこへ駆けつけた輝宗の嫡男政宗は、父もろとも畠山主従を鉄砲で討ち果してしまいます。

 このとき小説などでは「父に構わず撃て!」と輝宗が叫んだとされますが、実際はどうだったでしょう?あまりの父の愚かさに呆れ果てていたかもしれません。


 実は事件の一年前家督を継いでいた政宗でしたが、このとき一九歳。本格的に歴史の表舞台に登場することになったのは、この劇的な事件からでした。


 独眼竜政宗、輝宗と最上義守の娘義姫との間に生まれた嫡男でしたが、幼い頃疱瘡を患い片目を失っています。このため実母お東の方(義姫)からその醜くなった容貌を嫌われます。彼女は二男の小次郎を溺愛し、事あるごとに夫の輝宗に政宗の廃嫡を願い出ています。輝宗がそれを取り上げなかったことは伊達家にとって幸いでした。

 このような不幸な少年時代をおくった政宗がひねくれなかったのは、教育係の虎哉宗乙(こさいそういつ)と守役片倉小十郎景綱の厳しい教育のおかげでした。


 政宗は、まず父の弔い合戦とばかり二本松城を攻めます。義継の子、国王丸はたまらず芦名氏に救援を要請しました。芦名家は常陸の佐竹家から義重の子義広が養子に入り継いでいましたから、芦名・佐竹連合軍との全面対決に至りました。

 1585年11月、佐竹義重を盟主とし芦名義広、岩城常隆、石川昭光、白川義親の連合軍三万が伊達政宗を討つべく須賀川に集結、北上を開始します。急報を受けた政宗は、八千の兵を率い会津街道と奥羽街道の交わる要衝本宮の地でこれを迎撃しました。

 両軍は瀬戸川に架かる橋を中心に激しく戦います。一進一退の攻防を続けますが、劣勢の伊達勢は次第に敗色が濃くなりました。ところが、敵の中心である佐竹勢が急に陣払いをして去っていきます。佐竹の本拠常陸に江戸・里見勢が義重の留守を衝いて侵入したからでした。

 政宗はまさに九死に一生を得ます。佐竹勢の抜けた連合軍は瓦解し、自ら戦場を去って行きました。これが有名な人取橋の合戦です。



 その後も政宗はあるいは戦で、あるいは調略で順調に領国を拡大し、宿敵芦名義広を磐梯山摺上原の合戦で撃破します。1589年のことです。この時伊達軍兵力二万三千、芦名軍一万八千といいますから、人取橋から数年で伊達家が急速に拡大したことがわかります。

 芦名氏を滅ぼし、本拠を芦名氏の居城黒川城(現在の会津若松城)に移した政宗は領国も百二十万石を数えまさに得意の絶頂でした。しかし、中央では豊臣秀吉が天下統一に乗り出していたのです。


 1590年、関白秀吉は三十万という大軍で小田原城を囲みます。一時は小田原北条氏と結び秀吉と対決することも考えた政宗でしたが、実力の違いは如何ともしがたくついに小田原に参陣、秀吉に屈服します。


 秀吉は、降伏した政宗を許しますが、旧芦名領を取り上げてしまいます。これで振り出しに戻った政宗でしたが、転んでもただで起きないのが彼の良いところです。(いや欠点か?)

 秀吉に没収された葛西・大崎氏の旧領で一揆を扇動します。この時は新たに会津に封ぜられた蒲生氏郷の活躍で鎮圧され、政宗は窮地に立たされました。

 おそらく政宗は、秀吉に反逆する気持ちは毛頭なく、地の利に明るい自分に一揆の鎮圧を命ぜられるものと考え、その軍功で失った芦名領のかわりに葛西・大崎領を貰えるとばかり皮算用してたのだと思います。しかし、家臣の一人が裏切り、政宗から一揆勢にあてた密書が氏郷を通じて秀吉に渡ったため烈火のごとく怒った秀吉から上洛命令が出されたのでした。


 誰もが政宗の死罪を予測していました。しかし、政宗は金の磔柱を先頭に白一色の死装束という人を食った行列で度肝を抜き、秀吉の詰問にも有名な「本物なら花押に針の穴があるはず」という言い訳で申し開きします。


 もちろん秀吉も、政宗の嘘は分かっていましたが、書状に細工をして万が一の発覚を免れる用意周到さに感心し、許したのではないでしょうか。


 しかし、戦後処理は政宗に不利なものでした。伊達氏累代の地である置賜、伊達、信夫郡などを没収し、かわりに葛西・大崎領を与えるというものでした。これで後の仙台藩の版図がほぼ確定するわけですが、実質七十二万石あった旧領から五十八万石に減らされ、貧しい北に追いやられるという処置は政宗に深い恨みを残しました。


 これが政宗をして徳川家康に接近させる端緒でもありました。一方政宗の旧領を加えられ会津九十二万石に加増された蒲生氏郷政宗と、南の徳川家康の抑えとして重きを加えました。

 氏郷の急死後は、その役目は上杉景勝が引き継ぎます。関ヶ原の合戦の時も政宗は東軍に付き、上杉景勝と戦いました。家康は政宗に百万石のお墨付きを与えたといいますが、この時政宗はまたしてもへまをしてしまいます。

 家康から上杉景勝との合戦を自重するように言われ、旧領奪回の夢破れた政宗は、南がダメなら北とばかり同じ東軍の南部信直の領内に一揆を扇動するのです。南部信直最上義光から訴えられこのことを知った家康は烈火のごとく怒ります。そのため百万石のお墨付きは露と消え、わずか四万石の加増にとどまったのです。いらないことをしなければ百万石は無理としても旧領のうち十万~二十万石位は返してもらえた可能性もあったのですが野心がそれをフイにしてしまいました。


 これで政宗が懲りて野心を捨てたかというとそうでもなく(苦笑)、娘婿の松平忠輝を唆し謀反を企んだり、遠くスペインに家臣の支倉常長を派遣し同盟して徳川幕府を攻めようと画策したり、野心は一生消えませんでした。




 家康は、この政宗の性格を十分承知しながら深く信頼を寄せ、自分の死後の徳川家を託したりしていますから人間の格が一枚も二枚も上だと言えます。これが天下人と天下を取れなかった男との差だったのかもしれません。

 伊達家は、仙台藩六十二万石と他に政宗庶子秀宗に伊予宇和島十万石を与えられ幕末まで続きます。


 政宗が死去したのは1636年、享年七十歳でした。