鳳山雑記帳はてなブログ

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『コンゴ動乱』 左翼報道の大嘘

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 皆さんはコンゴという国がどこにあるかご存じですか?アフリカ大陸の西岸、大きくくびれて狭まる中央からやや下のあたり。銅・コバルト・ダイヤモンド・ボーキサイトなどの豊富な鉱物資源に恵まれながら、度重なる内戦で現在は世界の最貧国のひとつに数えられる国です。

 総面積が西ヨーロッパに匹敵するほど広大ですが、国土の大半がジャングルやサバンナで覆われ人口は5800万、国内を大きく蛇行しながら流れる大河、ほとんどがコンゴ川沿いのわずかな平野に住んでいます。


 初めこの地には黒人国家コンゴ王国があったとされます。帝国主義全盛時代に欧米の侵略を受けベルギーの植民地にされました。1960年6月30日コンゴ共和国(のちコンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立します。

 これで何事もなければ国土と資源のポテンシャルから大国となっていたかもしれません。しかし、7月11日南部の鉱物資源豊富なカタンガ州が、黒人指導者モイーズ・ツォンベ(Moise Tshombe:1919年 - 1969年)のもとで分離独立を宣言します。

 これは旧宗主国ベルギーが、コンゴのうちでももっとも豊かなカタンガ州の利権を保持しようとして裏から操ったものとの見方がありますが、ここではあえて触れないでおきます。ただツォンベ自身は白人との融和主義者でカリスマ性のある指導者だったと伝えられています。


 反乱自体は国連軍と政府軍の攻撃で間もなく収束しますが、事態をややこしくしたのはその後に起こった共産主義者の蜂起でした。ソ連と中国は、この地の豊富な地下資源に目をつけあわよくば奪取しようと目論みます。秘かに国内の辺境部族を手なずけ、タンザニアスーダン経由で武器弾薬をどんどん密輸しました。

 部族社会では族長が権威をもちます。彼らは穏健派で平和を望むのですが、近代化で権威を失っていったのはその下で権威を保っていた呪術師たちでした。共産主義者たちは、この呪術師に目をつけモスクワ、北京によびよせるか、あるいは政治将校を派遣して徹底的な共産主義教育を施していきました。


 もともとある程度権威をもった男たちです。思想教育された彼らは共産党ゲリラの指導者としてもうってつけでした。ある部族では、実権を奪った呪術師上がりの部隊指揮官が族長を殺し部族全部を支配するようになりました。


 ところで話は変わりますが、スーダンなどで12~15歳くらいの少年兵の問題が時折報道されるのをご存じですか?何故だかわかりますか?

 お教えしましょう。成人男子は判断力があります。国家に対する反乱など二の足を踏むのは当然です。しかし判断力のない少年はどうでしょう?武器を与え訓練して殺人の許可を与えたら、単純な彼らは恐るべき凶暴さをもって任務を遂行するのです。成人男子の軍隊の中に少年兵が混じっているんじゃありません。主力が少年兵なのです。

 まともな判断力をもった成年男子なら、村ごと虐殺しろと命令されても躊躇するでしょう。しかし少年兵はむしろ楽しんで残虐な行為をするのです。共産主義者の考えることは、なんと残酷なことか…。


 1960年はアフリカの年と言われましたね。しかしまともな統治能力を持たぬまま独立をしたアフリカの国家群を虎視眈々と狙っていたのはソ連や中国でした。西側諸国から独立するのですから、援助を受けるのは当然東側でしょう。それはいいんです。民族の独立はその民族の尊厳にかかわることですから。


 しかし、民族主義者を中心に独立したはずのアフリカの国家群は、いつしか組織力に優れた共産主義者に乗っ取られていきます。それは当然でしょう。武器をくれるのはソ連や中国ですから。

 アルジェリアしかり、コンゴしかり…。


 それが何を意味するか分かりますか?植民地に住んでいた白人は言うに及ばず、民族主義者、共産党支配に反対する一般民衆にたいする粛清が荒れ狂うのです。はっきりとした数字は残っていませんがコンゴでもすくなくとも数十万人は殺されたと思います。


 同じ社会主義国キューバからもチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が応援のため派遣されます。ゲバラブームなんてクソ喰らえだ!こんな民衆虐殺に加担したような奴が何で英雄だ!(怒)

 当時から、今でもですがこの実態をまともに報道した新聞がありましたか?テレビがありましたか?当時から今まで西側までも共産勢力がマスコミや知識人の間にもかなりのさばっていたのです。日本など今でもそうじゃないですか!!!

 植民地支配をしていた西側諸国は悪い国、それを解放したソ連や中国は良い国?ふざけるな!一般民衆の苦しみはどこで癒したらいいんだ!

 奴隷支配された植民地からやっと解放されたかと思ったら、もっとひどい共産党支配がやってきたとなったら救いようがないですよ。


 コンゴの不幸は、カタンガ内戦を収めようとした国連軍からも虐殺や強姦、略奪を受けたことです。具体的な国名を挙げてもいいんですが武士の情けです。あえて触れないでおきましょう。

 その国連軍は撤退しました。すると共産革命の嵐は、コンゴ全土を荒れ狂い反乱軍は首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)を窺うまでになっていました。

 腐敗して無能なコンゴ政府は右往左往します。統治能力のない大統領や首相に見切りをつけた軍の実力者モブトゥ大佐がこの難局を打開するために目をつけたのは、なんとかっての宿敵であるツォンベでした。

 カタンガ陥落後スペインに亡命していた彼を説得し、コンゴの首相に就任させます。最初は渋っていたツォンベでしたが、民族の危機を見過ごすことはできませんでした。

 ツォンベは、弱体化した国軍を諦めカタンガ時代に雇った外国人傭兵(フランス外人部隊出身者が数多くいた)を再度呼び戻します。傭兵たちも交流のあったツォンベのために喜んで戦いに身を投じました。

 傭兵たちは、軍の将校、下士官となって国軍兵士を鍛え上げます。金でしか動かないと世界中のマス
コミには蔑視された傭兵たちでしたが、彼らは戦争のプロです。しかもカタンガ時代に指導者としてツォンベの人となりを見ている彼らは、その彼を今度こそ勝たせるために努力しました。


 今回はカタンガのような、政府軍・国連軍という圧倒的に強大な敵ではありません。もちろん数ははるかに多いですが、しょせんは烏合の衆でした。共産ゲリラが得意とするジャングルでの遭遇戦でも、装備と訓練度、士気の高さで圧倒した傭兵部隊がこれを各地で打ち破りました。


 そして共産ゲリラの策源地であったアルベールヴィルやスタンレーヴィルが、傭兵部隊を中心としたコンゴ政府軍の猛攻の前に陥落。反乱は急速に収束に向かいました。1964年のことです。



 その後のコンゴはどうなったでしょう?共産勢力の反乱が終わると残されたのは民間人を含むおびただしい犠牲者と国土の荒廃でした。

 しかし急速な再建を望むツォンベは、国の実権を握ろうとしたモブトゥにとっては邪魔な存在でした。1966年5月無血クーデターを敢行したモブトゥによって議会から追放されます。

 再びスペインに亡命したツォンベは、1年後チャーター機のハイジャックでアルジェリアに捕えられ幽閉されたまま、数年後その波乱の生涯を遠く異国の地で閉ざしました。


 独裁政権を築いたモブトゥは、1971年には国号をザイールと変え1995年まで30年にわたり支配します。ところがその強権的な支配は国民の反発を受け、数々の住民反乱を招きました。1995年に勃発した内戦で反乱軍に首都を制圧され、モブトゥ政権は崩壊。


 コンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL)のローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をコンゴ民主共和国に戻したことは記憶に新しいところです。