鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

『もののけ姫』

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 秋の夜長になにかないかなと考えて思いついたのがこれ。『もののけ姫』久しぶりに堪能しました。ストーリーを知らない人はいないと思いますが、念のため。

『エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリガミ」にかけられた呪いを解くために、遠く西方の地を目指して旅立つ。そこで彼が見たものは、森を破壊しながら必死に生きるタタラ製鉄集団と、森を守る獣たち、そして獣として生きる少女サンであった。やがて、森を守ろうとする森の獣たちと、獣たちの長である「シシ神」を殺そうとする人間たちの壮絶な戦いが始まる。』(ウィキペディアより)


 夜になると巨大なデイダラボッチに変身する、生と死を司る森の生命の根源『シシ神 』。その首を得たものは不老不死の存在になれるという。伝説を巡って争う醜い人間達。

 人間による森林破壊で住む場所を失っていく太古から生き続ける知恵ある動物達。生きるために森を破壊し鉄を作り続けるタタラ場の長エボシ御前。都の権力者のためにシシ神の首を求め暗躍する師匠連の使者ジコ坊。自らに架せられた呪いを説くべくシシ神に出会うことを運命付けられた少年アシタカ。そして人間どもが生き延びるために山犬モロの君に生贄に差し出され、そしてモロに山犬として育てられ人間を憎みぬくヒロイン、もののけ姫サン。

 多彩な登場人物(動物も)が織り成して紡ぎだされる物語のテーマはなんだったのでしょうか?『自然の大切さ』などという通り一遍の解釈ではとうてい説明できないと思います。


 生きるためには自然を破壊せざるを得ない人間の原罪。森林破壊によって次第に住処を失い知恵をなくして滅びの道を進む動物の神。エボシたちは生きるために自然を破壊しましたが、その果実だけを求め、エボシとたたら場の男達がシシ神退治に出かけた隙に、エボシの村を襲う浅野公方たち侍達。


 浅野公方は論外ですが、その他の登場人物(動物)たちは、それぞれに正義があり己の生きる道のために戦います。首を取られ巨大化してデイダラボッチと化して自分の首を捜し求めるシシ神は、そんな生き物達の戦いをあざ笑うかのように生きとし生けるものの生命を吸収し続け最後には森を覆いつくすようになります。夜明け前にジコ坊たちから首を取り戻したシシ神はようやく収まりました。

 大破壊のあと、太古の森は完全に消え去りましたが、そのあとには生命の根源であるシシ神の功徳によって森が再生します。生き残った動物たちはあらたな生活を始めるため、己の道を再び歩み続けました。

 私が思うに、シシ神とは地球の地母神ガイアそのものだったのではないでしょうか。大自然と言い換えてもいいかもしれません。人であれ動物であれ命ある者は必ず死ぬ。生命の循環、大げさに言えば輪廻転生を象徴するのがシシ神だったのだと私は考えています。

 もののけ姫のテーマは、自然破壊であれなんであれ、それが時代の変化であり、昔が良かったわけでもなく、未来がすばらしいわけでもなく、たかが一時代の変化ごときで論ずる事の愚かさをシシ神=デイダラボッチとして象徴していたのかもしれません。ゆえに、自然破壊で人類が滅びることになってもそれは必然であり誰を攻める事もできないということです。
 滅亡を防ぐために努力して、それを回避するのもまた必然。こう書けば運命論として努力する事のむなしさを主張しているみたいですが、そうではなく、いやだからこそ努力しなければならないと言う事でしょう。生きていることの思いがなければ、生きていないのと一緒ですから。


 私の解釈は世間一般の解釈とは違うかもしれませんが、あらゆる解釈ができるのも宮崎アニメの特色と言ってもよいかもしれません。