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「小早川秀秋」同情論

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小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)、天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)は安土桃山時代から江戸時代前期の大名。木下家定の子。正室毛利輝元の養女(実父は宍戸元秀、祖母は毛利元就の長女)。従三位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、金吾中納言とも称された。

                       - フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より -


 日本史上、寝返りは数あれど、関ヶ原における金吾中納言小早川秀秋ほど決定的なものは少ないでしょう。それまで善戦していた西軍は、松尾山上から駆け下った小早川勢一万五千のために形勢が一気に逆転し壊走したのですから。

 後の徳川幕府確立を決定付けた裏切りは、あまりにも劇的で当時の人からも後世の人からも指弾されました。関ヶ原の功により備前・美作五十七万石の大封を受けたものの、二年で狂死し人々は関ヶ原の祟りだと噂しました。享年二十一歳。
 何度かドラマ化されたこの時代ですが家康や三成は、立場によって良く描かれたり悪く描かれたりしましたが、この小早川秀秋だけはきまってマイナスイメージで統一されています。


 ではほんとうに秀秋は悪かったのでしょうか?調べていくと同情すべき点も多いのではないでしょうか。
 小早川秀秋は、はじめ秀吉の後継者として育てられました。しかし実子秀頼が誕生すると疎まれ、小早川家に養子に出されます。それもはじめ秀吉は毛利家に養子に出す意向だったのを、毛利本家にどこの馬の骨ともわからない秀秋を養子として押し付けられては堪らないと、小早川隆景が自分の養子にしたものでした。こんな事情を知ったら、秀秋でなくとも屈折した感情になるでしょう。このとき秀秋十四歳でした。

 朝鮮出兵では、秀秋は総大将として渡海します。汚名返上とばかり張り切ったのでしょう。自ら槍働きし、それが軽率な行動だと批判されます。三成らの讒言によって秀吉が激怒、領地である筑前三十六万石を召し上げ越前十五万石へ国替えを言い渡されました。

 これは徳川家康のとりなしで、なんとか事なきを得ましたが、頑張れば頑張るほど不運になる哀れな人生でした。決断力もなかったのでしょう。

 今までのいきさつなら素直に徳川家康に付きそうですが、豊臣一門として秀頼を裏切れないという葛藤もあったと思います。その優柔不断さが土壇場での裏切りという最悪の行動に奔らせたのではないでしょうか。

 内通などせず、初めから旗幟鮮明にしておけば名門小早川家を潰さずに済んだと思うのですが。肖像画をみても優柔不断で線の細い夭折の相をしています。

 寝返りという自分の行動が、世間から非難されていると知った秀秋は、それを苦にしノイローゼになって最後は狂死しました。決断せずにズルズルと運命に流された秀秋は可哀想な気もします。大封を得る器でなかったと言ってしまってはそれまでですが、裏切った秀秋より裏切らせた家康、そして敵側に追い込んだ三成こそ非難されるべきではないでしょうか?