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長宗我部戦記Ⅸ  長宗我部氏滅亡

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 元親が溺愛していた長男信親の娘と娶わせるためだけで後継者として選ばれた盛親(1575年~1615年)。盛親は増田長盛を烏帽子親として元服します。盛親の不幸は、父元親の死後わずか1年余りで関ヶ原合戦を迎えたことです。

 豊臣大名たちは、次の天下人として徳川家康に接近するか幼主秀頼を盛り立てようとする石田三成に味方するかで分裂しました。盛親は家督相続に際し多くの家臣の反対があったため、家中を纏めることに集中せざるを得ず、長宗我部家生き残りに関わる外交を全くと言ってよいほどしませんでした。家康と三成の対立がはっきりした時も、なんとなく烏帽子親増田長盛の関係から西軍に付くという迷走ぶりです。ところが肝心の増田長盛ですら秘かに家康と通じているという救いようのなさでした。

 1600年9月15日、運命の関ヶ原合戦が始まります。盛親は南宮山の東南に布陣しながら前方に傍観を決め込んだ毛利勢が居たため何一つ戦いに関与せずなし崩しに敗走します。本国土佐に逃げ帰った盛親は、帰国に当たり大坂に家臣立石助兵衛、横山新兵衛を残しました。立石らは家康重臣井伊直政にとりなしを頼みます。直政は家臣を土佐に派遣し、「盛親が家康に謁見もせず帰国したのは罪。大坂に上って申し開きをするほうが良い」と忠告しました。

 盛親は直政の申し出には感謝しながらも結局大坂には行きませんでした。家康に謝罪工作は続ける一方、軍勢を動員し万が一の時は討伐軍を迎え撃つ準備をします。これは薩摩の島津氏と同じ対応でしたが、島津氏のような有能な外交官はおらず石高もはるかに低かったため、かえって家康の不興を買います。島津氏のような遠国で、朝鮮の役で鳴り響いたほど兵も強く一時は九州を統一する勢いだったケースと違い、土佐はいくら兵が強くとも家康がその気になればいつでも潰せます。讃岐、阿波、伊予の大名たちの忠誠を試すために土佐遠征を命じても良かったのです。

 情勢は盛親に不利になっていきました。いよいよ大坂に上るという時期、実兄津野親忠を殺すという致命的なミスを犯します。実は親忠は藤堂高虎と親しく高虎を通じて家康に長宗我部家存続を願い出ており一応了承を得ていたのでした。長宗我部家が生き残るには盛親が隠居し兄親忠に家督を譲る道しかなかったと思います。ところが盛親には、親忠の動きは自分への背信行為に映りました。一説では重臣久武内蔵助親直が盛親に対し
「親忠殿は家督相続に不満で藤堂高虎と気脈を通じ東軍に与した疑いがあり、高虎を通じて土佐半国を貰う約束ができております」
と讒言したため、怒った盛親が殺害を命じたとも言われます。

 家康に謁見した盛親は、津野親忠殺害を厳しく追及されました。家康は一時「父元親に似ても似つかぬ不義者」と激怒し誅殺しようとしたそうです。これは井伊直政のとりなしで助かりますが、土佐を没収改易となりました。家康の怒りは直政と示し合わせた演技のような気もしますが、これで盛親は浪人となります。代わって土佐一国を賜ったのは山内一豊でした。

 土佐では、一豊入国に際し長宗我部旧臣の激しい抵抗があったそうですが、一豊はこれを力で圧殺します。山内氏は一部の長宗我部家臣は登用しますが、一領具足の大半は野に下り、郷士となります。江戸期を通じて土佐藩郷士たちを冷遇しその不満が幕末に爆発、土佐勤王党の動きとなりました。

 浪人となった盛親は京都に隠棲します。剃髪して大岩祐夢(たいがんゆうむ)と名乗り寺子屋の師匠などをしていたそうです。苦節14年、大坂の秀頼と徳川方の間が険悪になると盛親は大坂方の誘いに乗り大坂城に入城します。勝利の後土佐一国を賜るという約束もあったそうですが、はたして盛親が本気で信じていたかどうか?同じ関ヶ原改易組で秀忠に仕えついには領国筑後柳川を回復した立花宗茂と対照的です。

 家康は武勇に優れる宗茂が大坂方に付くことを恐れ懸命に説得したそうですが、盛親にはそのような動きが無かったことから家康の両者に対する評価が分かります。盛親が大坂に入城すると、多くの長宗我部旧臣が駆け付けました。

 大坂冬の陣は籠城戦に終始しますが、夏の陣では盛親も5千の軍勢を率い出撃します。1615年5月6日八尾方面に進出した長宗我部勢は因縁の藤堂高虎軍と激突、これを破りました。ところが側面を井伊直孝勢に突かれ敗走します。これが盛親初めての戦らしい戦でした。翌7日、残兵をまとめた盛親は京橋口を固めますが、8日大坂城落城、秀頼は母淀の方とともに自害します。京街道を北に逃れ八幡の葦の中に隠れていた盛親は、蜂須賀勢に発見され捕らえられました。そのまま伏見に護送されます。関ヶ原大坂の陣と二度も敵対した盛親を家康が許すはずもなく、京都三条河原で斬罪に処せられました。盛親享年41歳。




 これにより南北朝以来の歴史を誇る長宗我部氏は滅亡。私は長宗我部氏滅亡の遠因は信親の戦死にあるような気がします。その意味では十河存保の呪いは実現したのでしょう。信親の死に衝撃を受けた元親はお家存続にやる気をなくします。一時は四国を統一した英雄の晩年を考えると寂しいものがありますね。

 ただ長宗我部氏滅亡がなければ土佐郷士の不満は先鋭化せず、明治維新もなかったと思えば歴史の巡り合わせの不思議さに感慨深いものがあります。




                                (完)