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佐野天徳寺の人物評

 学研の隔月刊『歴史群像』は私の愛読書の一つです。その創刊号かそれに近い号に印象深いエピソードがあります。

 

 下野国(現栃木県)佐野地方に佐野氏という戦国大名がいました。関東屈指の名城唐沢山城を擁し鎌倉時代から地頭として勢力を維持し小さいながらも侮りがたい勢力となります。戦国時代から江戸初期にかけて佐野房綱という人物がいました。出家して天徳寺宝衍(または了伯)。佐野氏13代泰綱の子に生まれ15代で兄の昌綱に仕えます。昌綱の子宗綱とは仲が悪く一時は出奔したこともあったようです。

 

 その後帰参した房綱は、佐野氏の重鎮として宗家を支え外交を担当しました。この地は戦国大名の争奪の的となり房綱は小田原の北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏の間をうまく泳ぎ切り佐野氏を存続させます。後に天下人となった豊臣秀吉といち早く誼を通じたのも房綱でした。

 

 小田原北条氏の末期、佐野氏は北条氏の圧力に屈し戦死した当主宗綱に子がなかったため北条氏康の六男氏忠を養子に迎え佐野氏家督を継がせざるを得なくなります。反北条派だった房綱は佐野氏を離れ豊臣秀吉に仕えることとなりました。人生何が幸いするか分かりません。秀吉の小田原攻めに参加した房綱は、皮肉にも唐沢山城攻めを命じられます。房綱は唐沢山城を奪還、秀吉に佐野氏家督継承を認められました。

 

 房綱には男子がなかったため秀吉家臣富田信吉を婿養子に迎え天正20年(1592年)家督を譲り隠居します。慶長6年(1601年)死去。房綱は佐野氏の外交を担当したため上杉謙信武田信玄に拝謁したことがあったそうです。

「謙信公、信玄公は威が強すぎて顔を上げられなかった。しかし秀吉公は気さくに私を呼び寄せられ肩を抱くようにして『お主が天徳寺か?よく存じておるぞ。これからもわしに仕えて励め』と親しげに接してもらった。これが天下人の器なのだと思った」

と後に述懐します。

 

 秀吉得意の人心収攬術なのでしょう。人たらしの面目躍如というところなのでしょうが、田舎大名に過ぎない房綱は感動したんでしょうね。秀吉はこの手で信濃真田昌幸陸奥津軽為信の心も掴んでいます。津軽為信などは秀吉の死後家康に従いますが秘かに秀吉を祀り日々冥福を祈っていたそうですから可愛げがありますね。さらに為信は関ヶ原で敗れた石田三成の遺児も匿っています。為信は陰険な策謀家というイメージが強いですが、そんな一癖も二癖もある人物の心を掴むのですから、佐野天徳寺の言う通りやはり秀吉は天下人の器なのでしょう。