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大久保長安の埋蔵金

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 世間では徳川埋蔵金などと騒ぎますが、伝説の域をでません。それより可能性が高いのが江戸時代初期に佐渡金山、石見銀山などの奉行を務めた大久保石見守長安埋蔵金でしょう。

 武田家にその経理の才で猿楽師から取り立てられた長安は、武田滅亡後、徳川家康に見出されまず大久保忠隣の与力に任ぜられます。このとき大久保の姓を賜り大久保長安と名を改めました。
 徳川政権下でも、その実務の才を重用され直轄地の代官などを歴任します。1591年には八王子の地に8千石を与えられ、佐渡金山、石見銀山などの奉行・代官を兼任するほど家康に信任されました。

 当時金山などでは幕府に収める金銀の量と自分の取り分は折半でした。そのかわり人夫などの人件費など諸経費は本人の負担です。長安は外国から新しい技術を導入し経費を浮かせる事で莫大な富を手にすることができました。

 長安は莫大な資産を蓄え、その富は大名や将軍さえ凌ぐものといわれました。長安の生前は、苦々しくは思いつつも家康は黙認していました。しかし、その死後本多正信父子によって長安が不正に蓄財していたと讒言されると、家康の怒りは頂点に達しその遺体を磔にしたばかりか、遺児7人を含む一族郎党30余名を打ち首獄門にするという徹底さでした。

 長安が反逆を企んでいたというのがその理由でしたが、これは幕府内の大久保忠隣を中心とする武断派と本多父子を中心とする文治派の暗闘の結果でした。それはともかく、家宅捜索された長安の屋敷からは黄金70万両をはじめとする莫大な遺産が発見されます。

 しかし、このことがあると予見していた長安は、その莫大な財産のほとんどをかって自分が代官をしていた箱根に隠したといわれています。これがいわゆる『石見守の秘宝』です。

 この埋蔵金徳川埋蔵金とおなじく、諸説があって混乱しています。しかし、戦前の有名な宗教家で預言者でもあった出口王仁三郎は、「箱根に埋蔵金があるのは確かだが、関係者の執念がついていて、時期がこなければ発見できない」と語っています。

 もし見つかったら、驚くべき財宝だと思います。呪いがかかっているのは怖いですが、見てみたい気もします。