鳳山雑記帳はてなブログ

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豊臣埋蔵金に関する一考察

 前記事で数ある埋蔵金伝説の中で豊臣秀吉埋蔵金は一番可能性があると書きました。というのも秀吉の富裕さは記録が残っているからです。本能寺の変の後中国大返しで姫路城に入った秀吉は城にあった財宝を2万の将兵にすべて配り不退転の決意で山崎の合戦に臨みました。これは過去記事でも書きましたが、姫路城にあったのは金800枚、銀750貫目、米8万5千石。はっきりと記録があります。また大阪冬の陣の時大坂城にあった兵糧は13万石。大阪方10万人が260日籠城できる量です。

 秀吉は天正17年諸大名に3万5千枚という金銀を配っていますし、秀吉死後徳川家康大坂城の財力を費やすために行わせた方広寺大仏殿建立でも莫大な黄金を吐き出させています。それでもなお大坂の陣の時浪人10万人を雇えるほどの財力を豊臣家は持っていました。豊臣家滅亡後家康が接収した豊臣家の遺産は黄金28万両、銀24万両だったと言われます。当時豊臣家は摂津・河内・和泉の三か国に押し込められ65万石の石高しかありませんでした。通常なら動員兵力は二万人くらい。それが10万人も動かせるのですからどれだけ財力があったか分かるでしょう。秀吉は天下統一時でも直轄領は200万石しかありませんでした。ところが秀吉は全国の金銀山を直轄領に組み入れ全土の流通を握ることで莫大な財力を持ちます。秀吉の強みはこの経済力。石田三成などの計数に明るい官僚群を有したのも秀吉が経済を重視した証拠なのでしょう。

 秀吉が亡くなる直前、遺児秀頼の将来のために一説では4億5千万両ともいわれる膨大な埋蔵金を多田銀山に隠させたという話があるのです。私は多田銀山というのは眉唾物だとは思いますが、かなりの埋蔵金をどこかに隠した可能性は高いと見ています。しかしはっきり言えるのは、大坂夏の陣で豊臣家滅亡後徳川家康によって秀吉の遺産の大部分は接収されたと思えるのです。ですから駿府城の倉の床が黄金の重さで抜けたという話は豊臣埋蔵金も含めたものではなかったかと考えます。

 という事は、豊臣埋蔵金徳川埋蔵金でもあるのでしょう。もしかしたら家康の集めた金銀財宝の半分かそれ以上は豊臣家から奪ったものだと言えるかもしれません。幕末には江戸城の倉はすっからかんになっていたそうですから、もし埋蔵金があるとすれば家康が埋めさせた日光東照宮の可能性が高そうです。

 それにしても埋蔵金にはロマンがありますね。