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大坂冬の陣の時、大坂城にはどれくらい兵糧があったか?

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 先日ブックオフで『戦国の籠城戦』(別冊歴史読本 新人物往来社)という本を買いました。古本は当たり外れが大きいのですが、これは大当たりの部類。月山富田城、三木城、上田城など有名どころの籠城戦と戦国城郭の構造、兵糧事情など有意義な情報が載っていました。

 何を隠そう先日の蔚山城の戦いも元ネタはこれで、私の乏しい知識を補完してくれる良書です。この本の中で山崎合戦前の姫路城の兵糧と金銀、大坂城の兵糧・財政事情が紹介されていました。まず姫路城。本能寺の変で主君信長の横死を受け、備中高松の陣中から姫路までわずか3日で駆け抜けた秀吉の中国大返し。姫路城で1日休息した秀吉は、「どうせ負けたらこの城には帰ってこれない」と覚悟し、城内に蓄えられた金銀を2万の兵士たちにすべて分け与え、士気が上がった兵を引き連れ明智光秀との山崎の合戦に勝利し天下人の道を歩み始めます。

 ではこの時姫路城にはどれくらい兵糧金銀が蓄えられていたのでしょうか?金800枚、銀750貫目、米8万5千石だったと伝えられます。当時の兵士1人の一日米消費量は約5合。計算すると1万5千の兵士が三年間籠城できるという膨大な量でした。金800枚も米に換算すると4万石。秀吉は、三木城攻囲、鳥取城干し殺しにも代表される通り兵站を非常に重視する武将で、鳥取城攻めの際にはあらかじめ若狭の商人に命じ因幡国内の米を通常の倍の価格で買い占めさせました。愚かな鳥取城の兵士は欲に目がくらんで城内の兵糧まで売りに出したそうです。

 このように兵站の重要性を良く知っていた秀吉ですから、心血を注いで築城した大坂城にも膨大な金銀兵糧が蓄えられていたことは容易に想像できます。秀吉の死後、豊臣家を滅ぼそうとした徳川家康もこれを熟知していたからこそ、方広寺大仏殿を再建するよう勧め大坂城の金銀を消費させようとしたのです。それ以外の畿内の神社仏閣の修復も言葉巧みに実行させ、方広寺だけで1775貫目という莫大な金塊が消費されたそうです。これがどれだけの価値か想像もできないのですが、家康は大坂城の黄金をかなり使わせたと思っていました。

 家康が戦端を開いたのは方広寺の鐘の文言に言いがかりをつけたのがきっかけですが、裏を返すと方広寺大仏殿の完成を待って仕掛けたとも言えます。この時大坂城には13万石もの兵糧が蓄えられていました。大坂方は10万人といいますが、換算すると260日の籠城戦が可能です。ところが大坂冬の陣では大坂方はわずか半月で家康の口車に乗り講和しました。その後、約束を反故にされ外堀を埋められ大坂城は裸城になります。続く大坂夏の陣で滅ぼされたのは周知のとおり。

 冬の陣の時戦いは全くの互角、秀吉の築いた大坂城はびくともしなかったのですから少なくとも半年粘れば情勢は変わっていたかもしれません。実は30万集めた徳川方の方が兵糧不足は深刻で、それぞれの大名の自弁でしたから長引けば長引くほど幕府に対する大名の不満がたまり爆発しかねなかったのです。その間に遠くの地方で反乱でも起これば情勢はどう転んだか分かりません。家康は豊臣家を滅ぼすつもりでしたから、わずか半月で講和などあり得ませんでした。

 大坂方が講和に飛びついたのは、淀殿が徳川方の撃ち込む大筒の轟音に驚いたからとも、積極的な浪人衆に対し豊臣家の家臣たちは厭戦気分が蔓延していたからだとも言われます。ただ生きるか死ぬかの瀬戸際、そんな甘いことを言っていては生き残ることはできません。結局、大坂城は長期間の籠城に耐えうる状況でも、中の人間(特に淀殿と秀頼)の無能さで落ちたといえます。結局滅ぶべくして滅んだのが豊臣家だったのでしょう。