文侯は宰相の里克に尋ねました。
「呉起とはどういう男だ?」これに対し里克は
「呉起は名誉心強く色好みですが、兵を用いされれば司馬穣苴(司馬法を記した伝説の兵法家)も上は超せますまい。」
「それほどの男か」文侯は呉起を将軍に取り立てました。
魏に仕官するや、呉起はその才能を存分に発揮します。西の秦を討って西河地方を奪い、魏を強国に押し上げました。呉起は文侯に信頼され西河の太守として秦や韓ににらみを利かせます。呉起の在任中はあえて両国は手を出しませんでした。
やがて文侯が没し、子の武侯が立つと呉起の周囲はあやしくなりました。西河の太守、将軍として名声高かった呉起は、宰相の位を狙います。しかし、宰相に任ぜられたのは田文でした。田文は謙虚に呉起を立てたので波風は立たなかったのですが、その没後宰相の位はまたしても他人のものになりました。
宰相になった公叔座は、魏の公主を妻に持つだけで出世した凡庸な人物です。いつか呉起にその地位を取って代わられるのではないかと不安に思い武侯に讒言しました。まだ若い武侯は、この讒言を信じます。
すっかり宮仕えに嫌気がさした呉起は、官位を返上し南方の楚に向かいました。かねてから呉起の名声を聞いていた楚の悼王は、亡命してきた呉起をさっそく令尹(楚の官制で宰相にあたる)に任命します。ここでようやく念願の宰相になった呉起は、悼王の期待に応え改革を断行しました。
楚の国は大国でしたが、歴史が古いため公族や貴族達の力が強く、王権は制限されていました。呉起は楚を強国にするため不用の官を廃し、公族たちの俸禄を削ったり、停止したりします。そして浮いたお金は国軍の強化に充てました。
呉起はこの兵を率いて南方の百越を討ち、北では陳と蔡を併合します。さらに韓・魏・趙の三国を討ち、秦を撃破しました。楚はまたたくまに強大国に成長します。
呉起は、国内では権力を奪われていた公族や貴族達から恨まれていました。しかし、呉起は悼王の寵愛をバックに諸改革を次々と実行していきました。
ところが最大の庇護者であった悼王が亡くなります。このときを待っていた公族たちは兵を挙げて呉起を襲いました。改革者として諸人に恨まれていたうえ、よそ者であった呉起は、孤立し進退窮まります。
呉起は悼王の柩が安置してあった部屋に逃げ込み、柩に取りすがりました。反乱軍はこれにかまわず矢を射かけ、呉起を殺します。このとき王の柩にも多くの矢が刺さりました。
悼王の葬儀が済み、太子が後を継ぎました。新王は王の柩に矢を射掛けた者たちをことごとく捕らえます。呉起を倒すために柩にまで矢を射た無礼に怒っていたのです。これに連座して処刑された家は七十二家に及んだそうです。呉起最後の兵法でした。これで復讐は成ったのです。
ここまで読まれた皆さんはお気づきだと思いますが、秦の商鞅の生涯と酷似していることに驚かせられます。改革者の最期は悲劇で終わるのでしょうか?
秦が商鞅の死後も順調に改革の道を進め天下を統一したのに対し、楚はその後振わなくなります。秦と比べ貴族の力の強かった楚では、王権が弱まり総力戦の戦国時代では生き残るのがやっとの状態でした。 ただ、最終的に秦を滅ぼすのが楚の出身であった項羽と劉邦だったのは歴史の皮肉かもしれません。