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私説「夏王朝の謎」

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 中国の歴史は王朝交代の歴史でした。それは必然的に民族交代の歴史でもありました。高校の世界史で『夏・殷・周・春秋戦国・秦・前漢・新・後漢・三国・晋・・・・・』と暗記した方も多いと思います。

 ところで、夏王朝ですが文字資料を伴った考古学上の発見がなく幻の王朝だと言われています。ただ、次の商(殷)王朝が、夏の最後の王「桀」を滅ぼして建国したという記録があるため実在したのは確かだと思います。わざわざ存在しない王朝を記録する意味がありませんから。

 話は変わりますが商王朝を殷という名前で記憶している方が多いと思います。私も長年謎だったのですが、調べていくと商を滅ぼした周王朝が、彼らを殷(商の都の名前)人と呼称していたことから日本で定着したのだと思います。
 ということは、夏というのは商人からの呼称で、彼ら自身はなんと自称していたか謎なのです。

 伝説では古の聖帝舜から、黄河の治水に功のあった禹が禅譲されて開いた王朝で、だいたい紀元前2070年頃から1600年頃までの470年あまり続いたそうです。都は二里頭遺跡がそうだと推定されていますが、どこから来た民族だったか謎です。一応北方系の牧畜民族が中原に進出して王朝を開いたと言われていますが、私はちょっと違う説を考えています。

 次代の商は、山東から安徽に分布していた東夷と蔑称される民族から出、その後の周は西戎と蔑称されるシナ=チベット語族系の遊牧民が文明化したものだと一応推定されます。
 ということは、夏の出自は北狄か南蛮しかないように思われるのですが、私は南蛮説をとりたいのです。

 その証拠として私が挙げたいのは夏王朝初代の禹王の墓が江東の地である会稽山にあることです。伝説では禹は死ぬ前に、この地に諸侯を集めそれぞれの業績を計ったことから会稽と名付けられたといわれています。わざわざ関係のない土地で死ぬとは考えられません。
 また、長江下流域のこの地は6000年以上前といわれる稲作文化の遺跡が発見されています。禹は黄河の治水で功を上げたと言われていますが、長江下流域はご存知の通り河川・沼沢の多い土地で高度な治水の技術を持っていたのではないでしょうか?
 あくまで私の推定ですが、江東で稲作文化をもって発展した民族が中原に進出して夏王朝を開いてのではないかと考えています。

 東夷、南蛮というのはあくまで中原からみた呼称で、それぞれが文化、文明を誇っていたのではないでしょうか?中原と直接交渉のない四川省でも三星堆文明が花開いていたことですし。