鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

人類文明の発祥Ⅰ  農耕と都市の起源

 最近『戦略の歴史』(ジョン・キーガン著 中公文庫)を読んでいます。ただこれ邦題が間違いで、『戦いと人類の歴史』とでもした方がふさわしいような気がします。イギリスの軍事史家だけあって欧州に関する考察は流石だと思いますが、東洋に関しては細かいリサーチミスがあります。

 例を一つ上げると商(殷)民族が戦車を使用していた事からキーガンはその起源をイラン周辺のステップ地帯だと推定しています。ところが支那の歴史に詳しい我々は商民族が東夷と呼ばれる種族から出ている事を知っています。おそらく最初期の商軍は、歩兵主力だったはずで、戦車を導入したのは中期以降。商以前の夏王朝が実在したとすれば起源は南蛮(あるいは東夷とも?、会稽伝説などが根拠)で、商を滅ぼした周は西戎出身です。支那人が東夷、南蛮、西戎北狄とさげすんだ民族が漢字を共通文化として中原(黄河中流域)に定住したのが漢民族の始まりだと思います。商軍の戦車はシルクロードを通じて導入したのだと推察できるのです。それでも全体的に見ればなかなか鋭い考察も多く、名著だと言えるでしょう。

 私はこの本に影響され、文明の歴史に関して考えてみたくなりました。まずは、人類がどのように定住し文明を築いたかを考えます。新石器時代は紀元前8500年から青銅器文明が始まった紀元前3500年くらいを指します。この時代、人類は狩猟採集生活をしていたと思いがちですが、農業の起源は意外と古く旧石器時代、23000年前くらいにイスラエルガリラヤ湖岸で農業の痕跡が認められたそうです。農耕が本格的に始まったとはっきりしているのはだいたい1万年前。支那では長江流域で稲作が開始されたといいます。

 一方、小麦に関してはシリア地方からパレスチナ地方が発祥の地だと言われます。だいたい1万年前の本格的農耕遺跡が見つかっています。狩猟採集の生活と違い、農耕は大人口を養う事ができます。人口も爆発的に増加し人々は農地の灌漑用水を巡って争うようになりました。あるいは、豊かな農作物を狙って周辺の蛮族が略奪を行うため、農耕をする人たちは集住し防備を固める必要がありました。

 最初は、集落の周りに濠を掘ったり柵で囲むだけだったでしょう。ところが争いが激化するにつれ、襲撃者も集団化しそれに対抗するために農耕民も防備を固めなくてはならなくなりました。エジプトやメソポタミアの粘土質の土は水でかき混ぜ木枠にはめ天日に干すと硬くなります。これが日干しレンガで、人々は日干しレンガを建築素材にする事によって集落の周りを高い城壁で囲むようになりました。

 支那ではどうしていたかというと、版築という工法で城壁を作ります。黄河流域の土は石灰分を多量に含み、両側を板で囲み上から突き固めることで頑丈な壁ができました。この版築城壁がどれほど頑丈だったかというと、支那事変当時口径75㎜以下の火砲では崩せないほどだったと言われます。

 支那に関しては、長江文明の遺跡がほとんど発見されておらず(ただし稲作遺跡と初期の都市遺跡はある)その歴史すら不明なので、シリアを見てみると日干しレンガの城壁で囲まれた都市が発祥したのは1万年前でした。有名なのはヨルダン川西岸にあるエリコ、アナトリア半島南部コンヤ平原にあるチャタル・ヒュユクが最古の都市だと言われます。

 驚くべき事にエリコは人口3000人、チャタル・ヒュユクに至っては7000人も人口がいたそうなのです。それだけ余剰生産物が蓄積され大人口を養えるようになったのでしょう。1万年前というと新石器時代が始まって間もなく。ほとんどの人類が今だ狩猟採集生活から抜け出せない中、シリアや支那の長江沿岸など一部ではすでに文明が始まっていた事になります。

 農耕の起源の一つはシリアですが、間もなくその中心はエジプトのナイル河口地帯、チグリス河、ユーフラテス河の河口地帯メソポタミアに移ります。「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスの有名な言葉がありますが、その言葉通りエジプトはかなり恵まれた土地でした。世界一の大河ナイルは1年の内のある時期定期的に増水し下流に洪水をもたらします。この氾濫は、同時に上流の豊かな土を氾濫原に残しました。人々はそこに小麦の種をまき豊かな収穫を得ます。これがエジプト文明の始まりで、氾濫の時期を探るために高度な太陽暦ができ、集団で洪水対策を行うためにリーダーが生まれ、それが王権に発展していきます。

 メソポタミアではどうだったでしょうか?最近のイラクの画像を見ると砂漠ばかりでとても大規模な農耕ができないようなイメージですが、本来乾燥した土地で十分な水があれば最も効率的に農耕ができるのです。水に関してはチグリス河、ユーフラテス河という大河からの灌漑で賄えます。ただ、乾燥しているためにメンテナンスを怠れば簡単に荒廃するので人々は集まって灌漑やメンテナンスをする必要がありました。最初は、神殿の神官がそれを主導していたようですが、次第に王権が生まれるようになります。メソポタミア地方で最初の文明を築いたのは民族系統不明のシュメール人。あくまで推定ですが、私は彼らの出自をシリア地方かアナトリア南部だと考えています。シュメール人メソポタミアに至った時最初からあまりにも高度な農耕文明だったからです。

 シュメール人は、メソポタミアの地にウルやウルク、ラガシュなどの都市国家を建設しました。エジプト文明もシュメール(メソポタミア)文明も紀元前4000年から紀元前3500年くらいに始まったとされますが、実際はそれより前紀元前6000年くらいには定住がはじまり農耕を行っていたようです。


 一般に文明の条件は金属器の使用だとされます。次回は青銅器文明の始まりについて見て行きましょう。