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春秋戦国史Ⅰ  周の東遷

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 支那の歴史は、伝説の三皇五帝から始まって夏、商(日本では都の名前を取って殷)、周、春秋戦国と続きます。夏王朝は一応存在したと思われますが遺跡ではっきりと存在を確認されているのは商からです。紀元前17世紀ころから始まり紀元前1046年滅亡しました。商王朝は甲骨文字を使用し神権政治を行っていたそうですが、それを滅ぼしたのは西方民族である周です。

 周の故地は、黄河が几状に湾曲するところの南部、渭水(いすい)流域でした。古代、漢民族はまだ成立しておらず東夷、西戎、南蛮、北狄のうち周は西戎に属していたと思われます。西戎というのは支那チベット語族で大きな意味では漢民族の先祖とも言えるのですが、中原と呼ばれる黄河中流域にこれら諸族が進出し漢字という共通文字を使用してコミュニケーションを図るようになって漢民族が形成されたのでしょう。

 周王室の姓は『姫(き)』。文王姫昌(西伯昌)が基礎を築き、息子の武王姫発が牧野の戦いで商王朝最後の王帝辛(紂王)を滅ぼし天下を統一しました。周は最初の都を本拠地である渭水盆地の鎬京(こうけい、現在の陝西省西安の西)に定めます。周は封建制を布き12代を数えました。12代の幽王は暗愚な王です。

 幽王という諡号は、「国内に威令が届かず国外に通達する事が出いない事」あるいは「動静が常に乱れ起居するのに節のない事」を意味するそうですが、名前からもなんとなく想像できると思います。紀元前781年から紀元前771年が在位期間です。史書では褒姒(ほうじ)という美女を寵愛し彼女との間に生まれた伯服を太子にしようとし正室申氏との子で太子であった宜臼を廃嫡しようとした事から、申氏の父である申侯の恨みを買い犬戎(西戎の一つ)を引き入れた申侯によって鎬京を攻め落とされ周王朝は一時滅亡します。幽王も褒姒や息子の伯服と共にこの時殺されました。

 周王朝は、建国時に多くの諸侯の助けがあった事から封建制を採用し王室の力は絶対ではなく微妙なバランスの上に立っていました。この辺り江戸時代の日本と酷似し12代幽王の時代は丁度衰退期に当たっていたのでしょう。ただおそらくこの頃から天子は天命を受けた者しか成れないという思想が形成されていたと思われ、申侯は天子になれませんでした。そこで元の太子であった宜臼を即位させます。これが平王です。

 平王は、戦乱で荒廃した鎬京を避け紀元前771年副都であった洛邑(現在の洛陽)に遷都しました。これ以後の周を東周とよびます。洛邑は中原の真っただ中にあり支配には便利そうですが、逆に王朝衰退に拍車がかかります。というのも渭水盆地は生産力こそ低かったものの函谷関(後には潼関)によって中原と隔てられ防衛上有利だったからです。戦国時代を統一した秦もここを本拠地として天下を支配します。

 東周は、再建に功績のあった諸侯国の鄭(当時は武公)が隣接し強大になったため最初から王権を圧迫され続けました。鄭は周王朝の一族である姫姓諸国の一つですが、中原の真っただ中に位置したため(都は河南省新鄭)豊かな国でした。こういう国が隣国にあったら周は発展できません。東周はその後衰退し続け春秋時代には権威だけは保持するものの洛邑近辺だけを支配する一地方勢力に落ちぶれました。戦国時代にはその権威すら忘れ去られ紀元前256年秦に滅ぼされます。

 周の東遷をもって春秋時代が始まりました。鄭は武公の時代権勢を極めますが息子の荘公の時代あまりにも王室を蔑ろにする態度を咎められ平王の後を継いだ桓王の討伐を受けます。ところが逆に鄭に撃退され王室の権威は地に堕ちたとされます。荘公は敗走する桓王を追撃するよう家臣に勧められますが「天子に対しそのような事はすべきでない」と断ったそうです。以後権威だけは保ち続けますが、実権は覇者と呼ばれる実力を持った諸侯が牛耳るようになりました。


 次回は、春秋列国の主要国を紹介します。