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北京   - 三千年の歴史を秘めた古都 -

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 北京といえば言わずと知れた中華人民共和国の首都ですが、この町が国都になったのは元の時代の大都が始まりだと言われています。

 それ以前も町自体は存在していましたが、当時の文明の中心地、中原(黄河中流域)から見るとはるか北のはずれ、人々は幽冥の先にあるようなイメージを持っていました。周代の行政区分、九州でもこのあたりは幽州と呼ばれていたほどですし。




 北京の地に町が誕生したのは紀元前11世紀の周代初めといいますから、現代まで3000年以上の歴史を持っています。

 もともとは周建国の功臣、召公奭(しょうこうせき)がこの地に封じられたのが始まりだとされますが私はこれには疑問を持っています。他の功臣周公旦や太公望呂尚(姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙)は魯や斉といった割合中原に近いところに領地を賜ったのに対し、彼らに匹敵する功績をあげた彼一人、そんな辺境に追いやられるのは差別だと感じたものです。



 いつかネットで情報を検索していた時、この疑問に答えてくれた人がいました(名前は忘れましたが…爆)。

 燕や、周の文王の伯父にあたる太伯の建国した呉(蘇州)は姫氏(周王室)一族であるのにあまりにも辺境にあります。その方は私よりはるかに中国史に詳しい方で、彼がホームページ上で、もともとこれらの国は中原周辺にあったのではないかと推理しておられたのはまさに卓見だと思います。


 そういえば詳しい春秋時代の地図を見ると南燕という国が中原のど真ん中にあります。(たしか今の開封あたり)これがもともとの燕の位置ではなかったかと考察されていました。同じく呉もいまの山西省南部がもともとの発祥の地。


 初めは小さな都市国家にすぎなかった燕や呉は、数百年にわたる戦乱の時代の中で、戦争あるいは天変地異に見舞われ国を捨てざるを得ない事態が発生したのではないかという主張です。そして移動した先が燕は今の河北省北京市あたり。呉は江蘇省蘇州あたり。


 はるか辺境の地で、異民族に囲まれながら発展した国なので国力は低くともあれだけ粘り強い国になったのではないかと思われます。フロンティアスピリットに富んだ人々だから建国の精神にしみついてたのではないでしょうか。


 
 話が広がりすぎましたので(苦笑)北京に戻すと、都市国家「燕」はその後周辺諸民族を従え広域国家に成長します。戦国時代に入ると戦国の七雄のひとつに数えられることになりました。

 この町は、燕あるいは薊(けい)と呼ばれ、漢代から唐代までは幽州とも呼ばれます。五代十国の末期に北方の異民族、契丹の建てた遼に奪われ、いわゆる「燕雲十六州」のひとつになりました。

 宋が一時的に取り返しますが、すぐ女真の金に征服され、さらにモンゴルのものになりました。


 欧亜にまたがる大帝国になったモンゴルの宗主国「元」の首都「大都」として町を整備したのは有名な元初代皇帝フビライハーンです。


 今まで辺境の一都市にすぎなかった北京が世界有数の大都市に成長したのは元代でした。元の故地ともいうべきモンゴル高原と中国本土を支配するのに、ちょうど両者の中間にある大都はもってこいの位置だったのでしょう。このあたりアラブ人の都市設計思想と似てますね。ひょっとするとソグド人など色目人の助言があったのかも?


 漢民族国家の首都になったのは、次の明代永楽帝の時代でした。永楽帝は、それまでの首都南京から自身の根拠地であった北京に遷都します。骨肉の争い(甥の建文帝を倒した靖難の変、1402年)の結果ですから、歴史は不思議で感慨深いものがあります。


 北京という名前は、南京応天府に対しています。正式には北京順天府(ほっけいじゅんてんふ)。


 女真族国家である清代も北京を首都に定めます。そして南京を首都とした中華民国を挟んで、中華人民共和国でも首都であり続けました。
 

 今の共産党政権が滅んで、新しい王朝が建つとどこが首都になるか興味があります。大昔に戻って西安長安)などになると面白いですね。


 その前に中国史に付きものの大規模な農民反乱、流民の発生が必須ですが…。そうなると日本みたいな周辺諸国にも迷惑がかかるんだよなあ。困ったものです。