日本史の過去記事で当たり前のように書いてきましたが、万が一日本史初心者の方が読んだら難しいだろうなと反省し説明記事を作りました。
五摂家というのは摂政・関白になる資格のある公家最高の家格で、藤原北家の嫡流具体的には「この世をば~」の和歌で有名な関白藤原道長直系の子孫です。次いで清華家という太政大臣にまで昇る資格のある三条家、徳大寺家、西園寺家、久我家、花山院家、大炊御門家、今出川家があります。三番目は大臣家で例外はあるものの極官は内大臣です。大臣家は正親町三条家、三条西家、中院家の三家でした。
四番目は羽林家で極官大納言。これより下は数が多いので具体名は省略します。五番目が名家で極官中納言、稀に大納言を出す程度。一番下は諸大夫家とも呼ばれる半家。実務派官僚が多く参議まで昇るのも難しかったそうです。
五摂家は公家最高の家格ですが、実はすんなり決まったものではありません。ここに一人の人物がいます。関白藤原忠通(1097年~1164年)です。源平合戦の歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、弟悪左府頼長と家督を争い保元の乱の原因の一つを作った人物です。実は忠通は40代まで男子がなく、その父忠実は晩年に生まれた頼長を溺愛し忠通から藤原氏の氏の長者(藤原一族の家長)の資格をはく奪し弟頼長に与えたことから、父子、兄弟の間に壮絶な争いが起こりました。忠通が父の圧力に抗し関白職を弟頼長に譲らなかったため皇位争いと連動して保元の乱が起こったとも言えます。
ところが忠通の晩年、連続して四男基実(近衛家を創設)、五男基房(松殿家を創設)、六男兼実(九条家を創設)が生まれました。保元の乱で弟頼長が死んだので、忠通は藤原北家の嫡流を保ちます。忠通の三人の男子のうち、松殿基房は余りにも平家に接近しすぎ、その後都を制圧した木曽義仲にも近かったため失脚。近衛基実と九条兼実が残りました。彼らの曾孫の時代に、近衛家から鷹司家が、九条家から一条家と二条家が分かれ五摂家が成立します。このうち近衛家が五摂家筆頭となり現在に至るのです。