鳳山雑記帳はてなブログ

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開封  - 世界の都市の物語 -

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 本当に忘れたころにやってくる『世界の都市の物語』シリーズ。最近の私の世界史記事傾向から遊牧民黄河関係の記事になるだろうと想像していた貴方、正解です(笑)。

 今回紹介する記事も黄河と無関係ではありません。突然ですがクイズです。皆さんは長江と黄河の大きな違いが分かりますか?地図を見てもらうと分かる通り、長江は河沿いに都市があるのに黄河は主要都市が河川から少し離れた場所にあるでしょ?これは当然で、黄河が暴れ河だからです。黄土高原から豊かな黄土を運んで中流域に氾濫原を形成し、そこが小麦生産の適地だったことから黄河文明は発祥しました。

 ただ黄河は、几上湾曲部のオルドスでは平均標高1000mもあります。鯉の滝登りの伝説で有名な竜門をはじめ大きな瀑布がいくつもあり河南省の潼関のあたりで東流すると一気に標高が下がります。ですから上流で豪雨になると黄河の水は急速に溢れ大洪水になりました。歴史上黄河は洪水の度に河道を大きく変え北は天津近くの渤海湾から南は直接淮河に合流するルートまでありました。

 黄河は、恵みの河であると同時に危険な河でもあったのです。古代から黄河の治水に功績をあげた者が王朝を築いたりしました。人々は黄河に二重の堤防を築きます。河に沿った第一堤防、そこから数キロ離れた第二堤防。しかし、堤防と堤防の間にも住民が住んでおり、時の政府は彼らの犠牲など全くお構いなしでした。一旦洪水が起こると何十万人も犠牲者が出たのはこのためです。最近だと、支那事変の時、日本軍の追撃を恐れた蒋介石国府軍黄河の堤防を破壊し人為的に洪水を起こした事件がありました。この時も数十万の犠牲者が出たそうです。国民政府も含め支那の歴代王朝は余り人民の命を重要視していなかったようです。

 ところで、中原の東の端にある重要都市開封だけは、割と黄河に近い所に位置します。それは開封が交通の要衝で河北と河南を結ぶ南北の陸路と黄河水運の水路の交点だったからです。開封は歴史上何度も名前を変えています。春秋時代、この地を支配した鄭の荘公が開封近くに城(城壁に囲まれた都市)を築き啓封と名付けたのが起源でした。戦国時代には大梁と呼ばれ、戦国七雄の一つ魏の後期の首都となります。この時は人口30万を数え戦国時代でも有数の大都市になりました。

 漢代には陳留郡が置かれ兗州に属します。開封が大発展を遂げたのは唐を滅ぼした朱全忠が自らの後梁の首都に定めてからです。以後、開封はかつての旧都洛陽が次第に衰亡していくのに比べ、華北経済の中心地として大発展に向かいました。宋を建国した太祖趙匡胤開封を首都にして東京開封府と名付けます。当時世界最大の経済大国の首都として大拡張された開封は100万都市になりました。

 この時がピークだったと思います。宋が女真族の金に滅ぼされ、その金もモンゴルに滅ぼされると開封は何度も戦場になり、そのたびに数十万人規模の犠牲者を出しました。モンゴル族が建てた元朝は、江南の杭州と大都(現在の北京)を結ぶ大運河を新たに整備し、開封はそこから外れたため衰微します。と言っても河南省省都であることには変わりなく重要都市であり続けました。

 現在開封市は郊外も含めて人口530万人。省都自体は中華人民共和国成立後鄭州に奪われたままになっています。今の市街の下に明代の街が眠っていると言われ、その下には宋代と全部で6層もあるそうです。これは黄河がたびたび大氾濫を起こしたためで当然当時生きていた何十万人もの白骨死体が埋まっていることになります。加えて数々の戦乱による犠牲者!

 観光に行きたい気はありますが、白骨は怖いので一生行くことはないでしょう(笑)。