土佐勤王党の悲劇は、山内容堂が見せる勤王の姿勢はあくまで形だけのもので本音が幕府存続にあったという事に気付けなかったことです。いや気付いてはいても信じたくなかったというのが本音でしょう。加えてテロによって奪った権力は別の力によって滅ぼされるという歴史の鉄則通りの末路を辿ったという厳しい見方もできます。
坂本龍馬(1836年~1867年)は勤王党の危うさに気付きいち早く脱藩し助かります。坂本家は長岡郡才谷村出身でした。4代目八兵衛守之の時高知に出て才谷屋という商売(質屋)を始めます。これが大当たりし7代目直海(なおみ)の時郷士の株を買って武士になりました。ただし本家の才谷屋は直海の次男直清が継ぎます。ですから竜馬の家は郷士とはいえ非常に裕福な家庭でした。
幼少時の龍馬は弱虫で寝小便たれ、悪童たちから泣かされて家に帰ってきていたそうです。そんな弟を可愛がり厳しく育てたのは姉乙女でした。坂本の家では、龍馬がとでも学問では身を立てられないと諦め剣術を治めさせようと地元の日根野道場に通わせます。ところがよほど才能があったのでしょう。龍馬は道場で頭角を現し江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門することとなりました。
坂本家は、龍馬が一刀流の免許皆伝を貰って帰郷し道場でも開いてくれれば満足でした。当時、各藩の若い侍たちは江戸に出て他藩の若者たちと交流します。龍馬も例外ではなく、武市半平太に連れられ長州藩の桂小五郎達と知り合いました。桂もまた神道無念流練兵館の塾頭を務めるほどの剣客で、剣でも親しくなれたというのが龍馬に幸いしました。千葉道場でも龍馬は才能を発揮し1858年24歳の時免許皆伝を許されます。
当時江戸に集まった若い侍たちの間で、剣と同時に国学も流行し水戸藩士を中心に多くの若者が尊王攘夷思想に染まりました。青年龍馬も何となくそれに加わっていきます。龍馬の生涯を彩った女性は数多くいますが、その一人千葉定吉の次女佐那とのロマンスは有名です。定吉の跡取り重太郎とも親友となり、このままいけば佐那をめとって土佐に帰り千葉門の道場を開くという道が見えていました。
ところが、帰国した龍馬に待っていたのは武市瑞山らによる土佐勤王党の動きでした。龍馬もまた当時の若者らしく尊王攘夷思想に染まっていましたから当然参加します。ただ龍馬は土佐の河田小龍や幕臣の勝海舟、肥後の横井小楠らと知り合ううちに、単純な尊王攘夷運動では日本を救えないと悟っていきました。中でも勝海舟には深く私淑し弟子入りまでしてしまいます。海舟と龍馬には面白いエピソードがあり、最初千葉重太郎と共に国賊(と見られていた)勝海舟を斬りに行ったところ、邸宅に上げられ海舟から時流を論じられて感激しその場で弟子入りを願い出たという話があります。
別の見方では千葉家の大事な跡取り重太郎を犯罪者にしないために即座に海舟に弟子入りしたとも言われます。
龍馬はテロに頼る勤王党に危うさを感じ何度か武市に忠告したそうですが容れられず、1862年3月土佐を脱藩しました。その後紆余曲折があり、長崎に落ち着いて1865年亀山社中を創設、海運貿易業に従事します。社中は日本最初のカンパニー(商社)といわれ、創設メンバーには龍馬の他に千屋寅之助、高松太郎、沢村惣之丞、近藤長次郎、新宮馬之助、池内蔵太、中島信行、陸奥陽之助(宗光、後の外務大臣)ら錚々たる人物が居ました。亀山社中は交易と同時に海軍、操船の技術を高め国事に奔走しようと考えます。
いつの頃からか、龍馬は犬猿の仲の薩摩と長州を交易の利で結び付け討幕の原動力にしようと考え始めました。しかし同時に有力大名の合議による政体いわゆる公議思想にも共鳴し矛盾を抱えていたとも言えます。