鳳山雑記帳はてなブログ

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マラズギルトの戦いとアルプ・アルスラーンの栄光

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 マラズギルトというのは現在のトルコ東部、ヴァン湖北方にある城塞都市です。1071年マラズギルトの郊外でビザンツ帝国とセルジュークトルコ帝国が激突しました。この戦いの結果、ビザンツ帝国アナトリア半島小アジア)の大半を失陥し、逆にトルコ族はアナトリア半島に進出して土着することとなります。
 
 ではこの戦いに至る両国の状況を示しましょう。まずビザンツ帝国から。ビザンツ帝国東ローマ帝国の別名です。この当時ギリシャ化が進んでいた事から、西洋人たちは首都コンスタンティノポリスの古名ビザンチウムにちなんでビザンツ帝国と呼びました。
 
 ビザンツ帝国の最盛期と言えばユスティニアヌス1世(大帝、在位527年~565年)の時代でしょう。有能な将軍が多く出現しベルサリウスは北アフリカヴァンダル王国を滅ぼし東ゴート王国を降してイタリア半島を回復します。その後起こった東ゴート族の反抗では、宦官将軍ナルセスが最後の東ゴート王トティラをタギネーの戦いに破って滅ぼしました。ユスティ二アヌス大帝の時代、北アフリカ沿岸からイベリア半島南部も回復しガリア、ブリタニアゲルマニアを除くローマ帝国最盛期にほぼ匹敵する広大な領土を獲得します。
 
 ところが、アラビア半島に興ったイスラム帝国に636年ヤルムークの戦いで敗北、穀倉地帯シリアを失陥します。その後イスラム帝国はエジプトや北アフリカビザンツ帝国から奪いアナトリア進出も許しました。ビザンツ帝国はこのまま衰亡し消えていくかに見えました。しかし9世紀ごろから次第に国力を充実させバシレイオス1世(在位867年~886年)の時代には再びアナトリア半島イスラム勢力から奪還、彼の開いたマケドニア王朝(867年~1067年)はバルカン半島全土を再征服、北部シリア、南イタリアも回復して帝国を再興しました。バシレイオス2世(在位958年~1025年)時代がマケドニア朝最盛期で、強敵ブルガリア帝国を降し「ブルガリア人殺し」の異名を得ます。
 
 マラズギルトの戦い当時のビザンツ皇帝は、ロマノス4世ディオゲネス(在位1068年~1071年)でした。彼の経歴はユニークで、もともとはビザンツの有能な将軍です。数々の戦功をあげた事から周囲に妬まれ讒言され島流しに遭いました。友人たちの尽力で釈放され皇后エウドキアと面会します。彼女は夫コンスタンティノス10世を亡くしたばかりの未亡人で、ロマノスの流刑時代の苦労話を聞くうちに同情しそのうち彼に興味を持つようになりました。そしてついにロマノスと再婚、ロマノスは即位しビザンツ皇帝になります。
 
 ただ話はそう単純ではなく、当時ビザンツは東方国境をトルコ人の侵入に悩まされ強力な皇帝が必要だったという事情がある事は確かでした。皇后との面会自体宮廷人たちが仕組んだものとも言われます。
 
 一方、セルジュークトルコ帝国に関しては過去記事

中世イスラム世界Ⅵ  セルジュークトルコ帝国

で詳しく書いたのでここでは簡単な紹介のみに止めます。
 
 セルジュークトルコとは、トルコ系遊牧民オグズの指導者セルジュークを始祖とするセルジューク家に率いられたトルコ系遊牧民族が建てた国です。創始者はトゥグリル・ベク。トゥグリル・ベクは1042年アムダリア(アム川、ギリシャ人はオクサス川と呼ぶ)がアラル海にそそぐ河口デルタ地帯ホラズムを占領、1050年にはイラン高原に進出し中央アジア、トランスオクシアナ(アラル海沿岸、アムダリアとシルダリアの河間地方。中央アジア一の穀倉地帯)からシリアにまたがる広大な帝国を築きました。
 
 トゥグリル・ベクはすでに権威だけの存在となっていたバクダードのアッバース朝カリフからスルタン(イスラム世界の世俗君主、アラビア語で権力者の意味)の称号を得ます。1071年当時、スルタン位を継いでいたのはトゥグリル・ベクの甥アルプ・アルスラーン(在位1064年~1072年)でした。トルコ語で『勇猛なるライオン』を意味します。
 
 アルスラーンの父チャグリー・ベクはトゥグリル・ベクの兄弟(弟?)で、1059年アルスラーンは父の後を継いでホラサン総督となります。先代スルタン、トゥグリル・ベクが亡くなると同じ兄弟のスライマーン、トゥグリルの従兄弟(アルスラーンにとっては大叔父)クタルミシュとスルタン位を争い勝ち抜いて即位しました。遊牧国家では世襲制ではなく時の実力者同士が戦って後継者を決める事がよくありました。ですからアルスラーンとて一筋縄ではいかない人物だったと思います。
 
 アルプ・アルスラーンは即位するとイラン人ニザーム・アム・ムルクを帝国宰相として登用し内政を任せました。ニザームは有能で、彼の時代セルジューク帝国の基礎が固まったと言われます。即位当初、アルスラーンアナトリア方面に軍を進めます。カッパドキア州都カエサリアを略奪し、アルメニアグルジアを占領しました。ところが意外とビザンツ軍の抵抗が強く、これ以上の侵略を諦めなければなりませんでした。
 
 ビザンツは軍管区制をとっており、これをテマ制と言います。これに対し中央の軍をタグマと呼び8世紀コンスタンティノス5世時代に整備されました。当初は4つの軍団(スコライ、エクスクービテース、アリトモス、ヒカナトス)から成り約2万4千の兵力でした。その後拡張され11世紀初頭には7個軍団4万2千になります。軍管区制は、地方地方に駐屯軍が居るため外敵の侵入に対する即応性はあるのですが、中央軍の到着前に各個撃破される危険性があり一長一短でした。
 
 あくまで個人的考えですが、軍事的に正しいのは地方の駐屯軍は最低数に止め外敵が侵入しても城塞での防衛に徹する。そこに機動力を持つ中央軍が援軍に駆けつけ城を包囲する敵軍を挟撃するというのが理想形だったように思います。ところが当時ビザンツのテマは総兵力12万から20万に達し、地方軍閥化していました。ビザンツ兵も文明に慣れ弱兵化します。ユスティニアヌス大帝当時の重装騎兵カタクラフトと機動力のある軽装騎兵、当時地中海世界最強を誇った重装歩兵による精鋭軍団の面影はすでになくなっていました。
 
 ビザンツ帝国でも、自国の兵の弱体化を補うためにフランク人やスラブ人、トルコ人などの傭兵に頼るようになっていきます。アルスラーンは、国境地帯でのビザンツ帝国の意外な抵抗を受け和平の道を探りました。ところがロマノス4世は、逆に蛮族どもの弱腰を侮りこの際大軍を持ってセルジューク軍を一気に叩き東方国境を安定化させようと目論みます。ロマノス4世の意図は理解できます。しかし、もっと敵情を探り相手の実力を見極めるべきだったと思います。
 
 アルスラーンは、主敵をエジプトのファーティマ朝と定め遠征準備中でした。1071年、ロマノス4世は中央軍タグマを中心とする7万(4万から7万と諸説あり)の軍勢を編成し自ら東方国境に赴きます。皇帝に率いられたビザンツ軍動くの報を受け、アルスラーンは和議を求めました。当時ビザンツは眠れる獅子とも恐れられ本格的戦争になったらとても敵わないというのが当時の中東に生きる人間の常識だったそうです。かつてのローマ帝国の栄光、近年のバシレイオス2世の強勢を見たらそういうイメージを持たれて当然でした。
 
 和議の申し出を一蹴したビザンツ軍は、ヴァン湖北方マラズギルトに陣を布きます。アルスラーンは3万の騎兵を率いてアレッポを出陣しました。マラズギルト城はセルジューク軍が占領していましたが、守備兵が少数だったため簡単にビザンツ軍に奪還されます。ロマノス4世は、シリアに居たアルスラーン軍主力の到着に時間がかかると読み、油断していました。
 
 ロマノス4世は各地に兵糧調達のために部隊を派遣します。ところがそのうちの一隊がセルジューク軍と接触、簡単に撃ち破られ指揮官が捕虜になりました。実はこれがセルジューク軍の主力で、ビザンツ軍は戦う準備の整わないまま決戦を強要されます。この段階でもなお、アルスラーンは8月25日和議の使者を送りました。ロマノス4世はこれを拒否。
 
 ビザンツ軍中にあったトルコ人傭兵たちは、親類がセルジューク軍に居たのを見て、その夜ひそかに陣を抜け脱走します。緒戦からケチのついたビザンツ軍ですが、翌26日ビザンツ軍は進撃を開始しました。左翼に欧州側のテマから召集された兵を率いるブリュエンニヌス、右翼にアルメニア騎兵を主力とした部隊を指揮するテオドシウス・アリュアッテスを配し、皇帝ロマノス4世は中央軍タグマを率いて中軍を進みます。
 
 これに対しアルスラーンは、正面からぶつかる愚を避け部隊を半月形に配置し敵が接近すると後退しながら弓矢を発射しました。欧州の歩兵軍が中東の騎兵軍に負ける時の典型ともいうべきパルティアンショットによる戦いでした。歴史的に何度も同じ戦法で負けているのに、ロマノス4世は学習しなかったのでしょうか?こういう場合無理に追撃せず、こちらも陣を固め敵が接近したら長射程の投射兵器、例えば弩などで対抗すべきだったと思います。追撃は、敵が矢を撃ち尽くしてからでも遅くはありますまい。
 
 夕刻、ビザンツ軍はアルスラーンのいた本陣跡を占領します。ところがセルジューク軍は後退しながら、側面では敵を包み込むように機動し、いつの間にか包囲の態勢を取っていました。こうなるとどう足掻いてもビザンツ軍に勝ち目はありません。ロマノス4世は部隊に後退命令を出しますが、タイミングが遅すぎました。命令が上手く伝わらずビザンツ軍右翼が混乱すると、アルスラーンはこの機を見逃さず重装騎兵4千に突撃命令を下します。
 
 大混乱に陥ったビザンツ軍は我先に逃げ出し、皇帝と親衛隊が敵中に取り残されました。皮肉にもビザンツ兵がさっさと逃げ出したのに対し、最後まで戦ったのは親衛隊のトルコ人傭兵だったと伝えられます。ロマノス4世は負傷しセルジューク軍の捕虜となりました。
 
 皇帝は敵将アルスラーンの前に引き出されます。
「貴国では捕えられた敵将の処分をいかがする?」というアルスラーンの問いに対し、皇帝は
「わが国では、即刻処刑するか首都コンスタンティノポリスの街頭で晒しものにするだろう」と答えたそうです。
それに対し、アルスラーン
「では、それよりも重い罰を与えよう。貴殿を赦免し自由にする」
と宣言しました。
 
 これは有名なエピソードですが、私は史実かどうか疑っています。アルスラーンは難敵ファーティマ朝との対決に全精力を傾けるため、ビザンツ帝国との全面対決を避けたというのが真相でしょう。戦いの結果、アルスラーンは皇帝の身代金として金貨1000万枚を要求しました。賠償金は分割とされビザンツ帝国の国庫を圧迫するようになります。
 
 敗者として惨めな帰還を果たしたロマノス4世。ところが首都では皇后エウドキアが、すでに夫を廃して前夫との間に生まれた息子ミカエル7世ドゥーカスを即位させていました。ロマノス4世は、ミカエル7世の皇位継承を認めず対抗しますが、敗残の元皇帝に味方する者はおらず捕えられ両目を潰されて追放されます。1072年、ロマノス4世は失意のうちに亡くなったそうです。
 
 マラズギルトの戦いの結果、アナトリア半島にはトルコ人が大挙して入植しました。以後アナトリアトルコ人の土地となります。セルジューク朝に従ってアナトリアに入植した一族の中に、後に大帝国を築くオスマン家がいました。