鳳山雑記帳はてなブログ

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黒羊朝と白羊朝

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                              黒羊朝の版図


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                              白羊朝の版図



 トルクメン人は現在トルクメニスタンを中心にアフガニスタンからイラン、北はロシア南部に住む人口900万人(そのうちトルクメニスタンに430万人)の民族です。かつては中央アジアで活躍した遊牧民でした。トルクメンの語源ははっきりしないんですが、『トルコ人に似た者』という意味だとする説、あるいは『トルコ人・クマン人(キプチャク人)を合わせた言葉』だという説もあります。

 トルコ人に似た者という語源の説もありますが、トルコ系であることには間違いなく、トルクメン人の民族学者ジキエフの研究では同じトルコ系のカザフ人やウズベク人が古代トルコの伝統を色濃く残しているのに対し、トルクメン人は混血を重ねそれが薄まった集団だとしています。私は素人なので判断できませんが、多分にコーカソイドの血が入ったトルコ系遊牧民族だと解釈して話を進めます。

 なぜ長々とトルクメン人の話を続けたかというと、トルクメン人が属した集団はかつてオグズと呼ばれセルジューク帝国や黒羊朝、白羊朝、オスマン帝国を建国した民族だからです。もちろん現在のトルクメン人とこれら王朝を建国した民族が同じというわけではなく、オグズの大きな流れの中で分化して行った一つの集団が現在のトルクメン人だという事でしょう。

 
 話は、ティムール帝国末期まで遡ります。ティムール帝国第4代アミール(イスラム世界で称される君主号の一つ。軍事指揮官の意味合いが強い)ウルグ・ベク(1394年~1449年)は学問を奨励し首都サマルカンドの文化を発展させた君主として有名ですが、その晩年は不幸でした。甥のアラ・アル・ダウラに背かれ息子アブダル・ラティーフの治めるヘラートを落され、息子は捕えられてしまいます。ダウラはヘラートで自立しました。ダウラの反乱はまもなく鎮圧されますが、今度はトルクメン人がサマルカンドを占領、略奪暴行の限りを尽くしました。

 さらに不幸は続き、救出された息子アブダル・ラティーフが反乱を起こすのです。結局ウルグ・ベクは息子に殺されます。ラティーフは間もなく即位しますが、父殺しの汚名を受け誰も支持しませんでした。ティムールの子孫の一人アブー・サイードサマルカンドを攻撃され逃亡途中暗殺されました。これでティムール帝国は崩壊します。ちなみにアブー・サイードの孫に当たるのがインドにムガール帝国を建てたバーブルでした。


 ティムール帝国は周辺の多くの遊牧民支配下に置いていましたが、中央の統制が弱まると彼らに自立の動きが起こります。現在のトルコ東部アルメニアやイランとの国境近くヴァン湖のある盆地は遊牧の適地の一つでトルクメン人たちが住んでいました。その中の一つ黒羊(カラ・コユンル)と称する部族の族長カラ・ユースフは、ティムールとしばしば戦いますが、1405年ティムールが死ぬと失地を回復、1408年アゼルバイジャン地方を領するティムールの王子アブー・バクルを殺してタブリーズを占領、黒羊朝を打ち立てました。1411年にはバグダードを落としイラク地方に領土を広げます。分裂し衰退の道を辿るティムール帝国は成すすべもありませんでした。

 このまま行けば黒羊朝がティムール帝国の故地を併呑するのは時間の問題だと思われます。ところがヴァン湖よりもさらに西、ディヤルバクル地方に君臨する同じトルクメン人の白羊(アク・コユンル)と称する部族に一代の英傑ウズン・ハサン(1423年~1478年)が登場しました。ウズン・ハサンはアナトリア北部のトレビゾンド帝国ビザンツ亡命政権の一つ、コムネノス朝)の皇帝ヨハネス4世の娘を娶り同盟を結びます。イスラム教徒とキリスト教徒(ギリシャ正教徒)の結婚は違和感しかありませんが、当時生き残るが最優先で宗教の違いは問題にならなかったのでしょう。

 ウズン・ハサンは表面上は黒羊朝に服属しながら飛躍の機会を虎視眈々と狙います。1461年同盟国トレビゾンド帝国オスマントルコのメフムト2世に攻撃されました。ウズン・ハサンは強大なオスマン軍の前に妻の実家トレビゾンドを見捨て、メフムト2世に使者を送り停戦協定を結びます。急速に台頭する白羊朝に警戒感を強めた黒羊朝のスルタン、ジャハーン・シャーは1467年白羊朝に討伐軍を送りました。これをムーシュ平野で迎え撃ったウズン・ハサンは黒羊朝軍を撃破しジャハーン・シャーを殺します。反撃に転じたウズン・ハサンは黒羊朝の領土に攻め込み2年もしないうちに黒羊朝を滅ぼしました。1469年には、黒羊朝から助けを求められ出陣したティムール帝国のアブー・サイードまで破り捕殺します。

 これでイラン高原まで領土を広げ、ウズン・ハサンは白羊朝の最盛期を築きました。しかしアナトリアに残ったトルコ系君侯国カラマン朝を支援したため、アナトリア統一を目論むオスマン帝国とぶつかります。1473年、オトゥルクベリでオスマンの大軍を迎え撃ったウズン・ハサンはオスマン軍のマスケット銃と大砲の前に完敗、王朝発祥の地である東アナトリアを奪われ、ユーフラテス川が両者の国境と定められました。1478年、ウズン・ハサンは首都タブリーズで波乱の生涯を終えます。亨年55歳。

 英主ウズン・ハサンの死によって白羊朝は分裂しました。1501年イラン北西部、カスピ海から少し内陸に入ったアルダビールを本拠とする神秘主義教団サファヴィー教団の教主イスマイールが周辺のトルクメン遊牧民を糾合し白羊朝に反旗を翻します。サファヴィー教団はタブリーズを落とし王朝を建国しました。すなわちサファヴィー朝です。サファヴィー朝は白羊朝の領土を蚕食し続け1508年完全に滅ぼしました。

 以後中東の主役は、ビザンツ帝国を滅ぼし欧亜にまたがる大帝国を築いたオスマン帝国と、イランを本拠とするサファヴィー朝になります。両者はイラクアルメニアの支配を巡って激しく戦いました。