私の学生時代、古代日本では狩猟採集生活をしていた縄文人に対し朝鮮半島から渡った弥生人が稲作を伝え縄文人を駆逐(軍事的に、あるいは平和裏に)し現在の日本民族を形成したと習いました。最新の日本史教科書はどうなっているのでしょうか?気になります。
ところが調べていくと、縄文時代末期にはすでに稲作が伝来し弥生時代の始まる前三世紀を遥かに超える前8世紀にはすでに北九州で縄文人による水田耕作が行われていたことが遺跡調査で科学的に証明されました。また稲作伝来も半島からではなく、支那江南地方から黒潮に乗って直接伝えられたことも分かっています。
温帯ジャポニカ米の特性遺伝子が原産国の支那と日本にだけ存在し朝鮮半島にない事でも証明されます。朝鮮半島の水田耕作遺跡が1500年より前には遡れないことも傍証になるでしょう。そこから導き出される結論は、半島由来の弥生人は稲作を伝えていないという事なのです。
弥生人に関して調べると、従来言われてきたツングース系単一ではなく複数の流入ルートがあったそうなのです。その中には当然稲作を日本に伝えたであろう江南系弥生人も含まれます。さらに海洋民族であった縄文人が、直接大陸で稲作を学び日本にもたらした可能性も高いと思います。そして最新の研究では縄文人と弥生人の間に断絶はなく、渡来した弥生人はそれほど多くないとも言われます。
これは当然ですよね。縄文時代末期から稲作が行われていたということは、大人口を養う事が出来もともと縄文人の人口は多かったと推測できるからです。渡来した弥生人は縄文人の大人口の中に吸収され現在の日本民族が形成されたという事が事実のように思えます。
では、どうして半島系の弥生人が稲作を伝え縄文人に取って代わって日本の主人になったと言われたのでしょうか?私にはどうも連合軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)が影響を与えたとしか思えないんです。ご存じの通りWGIPは『戦争について日本人に罪悪感を植え付け、二度と欧米に逆らえないように洗脳する』というものでした。その一環として日本の歴史に誇りを持てないように教育さえ歪めました。
日本を貶めようとする反日左翼は、このWGIPを利用(悪用)して現在に至るまで日本史を侮辱し続けているのだと思います。韓国の反日の根底にもアメリカの意向があったことは容易に想像できます。ですからこの問題は根が深いのです。
よく縄文人顔、弥生人顔で例に出される弥生人は明らかにツングース系の朝鮮人に近い顔になっています。ところが人骨調査ではもちろんツングース系もあれば支那江南系の顔もあるそうです。私は、実態は江南系の方が多いのではないかと考えます。すべての文化は朝鮮半島から日本にもたらされた。日本はもともと野蛮な国だったと日本人に刷り込み劣等感を持たせるのが連中の狙いだったのでしょう。ですからそれに加担する日本の学者は科学者の風上にも置けない最悪の売国奴という事になります。幸いにして科学データという事実を根拠にして稲作が江南から直接もたらされたという説を唱える学者が増えてきたそうですが、まだまだ考古学界、古代史学会には頑迷固陋な半島由来論者が盤拠しているそうです。本当に許せませんね!
私の考えでは、弥生人は渡来したし江南系の弥生人が稲作を伝えた可能性は高いと思っています。そして製鉄技術もこのルート(過去記事で検証)。半島からも来たでしょうが、これはもともと半島南部に住んでいた縄文人と混血した北方ツングース系か、山東半島から朝鮮半島に渡った東夷といわれる人々がさらに日本に至ったケース。純然たるツングース系(おそらく扶余族)はごく少数だったのではないかと思っています。
では、半島系弥生人(扶余族、亡命東夷、半島縄文人との混血)は何を伝えたのでしょうか?私はそれこそ騎馬の技術ではないかと睨んでいるんです。私は高校時代江上波夫教授の『騎馬民族国家』を読んで以来長い間騎馬民族征服説を信じていました。このブログの初期の記事でも濃厚に影響を受けています。が、調べていくうちに皇室に農耕民族の祭祀が濃厚に残っているのに対し、騎馬遊牧民族的な風習が皆無な事から現在では否定しています。しかし、江上氏の遊牧民族全体に対する研究は高く評価していますので念のためお断りしておきます。
騎馬民族は来なかったが、騎乗の技術と馬具は扶余族あるいは半島にいた和人によって伝えられたというのが現在の私の見解です。そして古代支那で沿岸部に住んでいた東夷といわれる異民族と縄文人は血統的に近しい民族ではなかったかとも推測しています。昔読んだ本(題名は忘れた)にも指摘されていましたが日本人が東アジア稲作文化圏の一員であった事は確かなのです。
皆さんはどう思われますか?