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水戸藩の幕末維新Ⅰ  安政の大獄

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 嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖に出現したペリー率いる米国艦隊黒船四隻。彼らの出現によって幕末維新の歴史は始まったとも言われます。徳川御三家の一つ常陸国水戸藩も、太平洋鹿島灘に面していることもありその危機感は他人事ではありませんでした。しばしば沖合に異国船が出現していたからです。

 もともと水戸学によって尊王思想を醸成していた藩論は、異国への敵愾心から攘夷思想を加えていく事になります。これは1840年に起こったアヘン戦争の情報もある程度入ってきておりイギリスに敗れた清国の悲惨な状況を知っていたからだと言われています。水戸藩には藤田東湖(1806年~1855年)という傑物がいました。藤田家は水戸藩で水戸学を教授する家柄で、彼の父藤田幽谷も他藩に知られた高名な学者でした。

 東湖は、アヘン戦争や北海道のゴローニン事件(1811年)や九州のフェートン号事件(1808年)の情報を得ており外国が危険な存在だと痛感していたのです。水戸徳川家第9代藩主徳川斉昭(烈公、1800年1860年)は、東湖を登用し藩政改革に乗り出します。東湖は頑迷固陋な攘夷論者ではなく、異国に対抗するには近代装備が必要だと痛感していました。斉昭は東湖や武田耕雲斎、戸田忠太夫ら有能な士を抜擢し領内に反射炉を建設し大砲を鋳造するなど、経済軍事に成果を上げました。

 江戸幕府は、ペリー来航を受け困難な時局を打開するため斉昭に海防参与就任を依頼します。ところが危機感の薄い幕閣と気性の激しい斉昭では合うはずもなくいたずらに対立を深めるだけでした。そんな中、病弱な第13代将軍家定の後継者問題が噴出します。

 その有力候補として斉昭の七男で一橋家に養子に入っている慶喜に白羽の矢が立ったのです。これには幕政改革で斉昭に同心する薩摩の島津斉彬ら有力外様大名が味方に付き一橋派と称されました。しかし慶喜が将軍になれば斉昭に幕府が牛耳られると恐れた反対派は紀州慶福(よしとみ。後の14代将軍家茂)を擁立し対抗しようとします。こちらの陣営を紀州派(南紀派)と呼びます。斉昭の激しい性格を嫌った大奥が紀州派をバックアップしたとも言われます。

 日米通商条約の勅許問題でも両派は対立し、幕政は混乱します。一橋派は改革派だが思想は保守(尊王)、一方紀州派は思想は保守ながらも開国を支持するという複雑な関係であったことも事態をより混迷化しました。このままでは、親藩や有力外様など西国雄藩を味方につけた一橋派の勝利はほぼ決定していました。ところが紀州派は譜代の筆頭、彦根藩井伊直弼を擁立し巻き返しにかかりました。直弼は久しく途絶えていた大老職に就任します。

 こうなると御三家ながらあくまで幕府の顧問にすぎない斉昭と実際の幕政の主導者大老では勝負になりませんでした。斉昭は海防参与から1855年には軍制改革参与になっていましたが、井伊直弼が斉昭の主張を無視して勝手に日米修好通商条約を調印した事に怒り水戸藩士を率いて江戸城に登城、勅許を待たずに条約を調印した直弼を「違勅の大罪人」と詰り責任を追及します。条約調印と同時に将軍後継を紀州慶福に決めたと公表したことも斉昭の怒りを増幅しました。これを後世「斉昭の押懸登城あるいは不時登城」と呼びます。

 ところがこれは大失敗でした。大老井伊直弼は逆に幕府を脅迫する意図を持って登城したと斉昭の罪を追求し登城禁止処分にします。関係者も処罰されました。斉昭の政治生命はこれでほぼ断たれました。1859年には尊王攘夷の総本山とも言うべき水戸藩孝明天皇から攘夷決行の密勅が下ります。水戸藩では、これを盾に幕府に圧力を掛けようとする尊王攘夷派と、密勅を朝廷に返上して幕命に従うべしという保守門閥派が激しく対立しました。そしてこの動きに危機感を覚えた大老井伊直弼は斉昭に蟄居謹慎処分を下します。政治生命の断たれた斉昭に抵抗する力はありませんでした。すでに藩主の地位も息子慶篤に譲っており1855年安政地震で股肱の臣藤田東湖を失っていた事も大きかったと思います。東湖の死は水戸藩のその後の運命を決したとも言われます。

 1858年9月、井伊直弼徳川斉昭に味方した尊王攘夷派の大弾圧を開始します。所謂安政の大獄です。斉昭の息子一橋慶喜はじめ尾張藩徳川慶勝福井藩松平春嶽宇和島藩伊達宗城土佐藩山内容堂らを謹慎処分、長州藩吉田松陰福井藩士橋本佐内、京の儒者頼三樹三郎ら死罪、水戸藩家老安島帯刀切腹など処分は過酷を極めました。

 世間は尊王攘夷派に厳しい処分を下す井伊直弼を赤鬼(井伊家の赤備えに由来)と呼んで恐れ忌み嫌いました。徳川御三家水戸藩の処分はことのほか厳しく、一時は現藩主の慶篤さえも謹慎登城禁止となるほどでした。当然、水戸藩士は激高します。それが1860年3月3日の桜田門外の変へと繋がるのです。


 次回は桜田門外の変を描きます。