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水戸藩の幕末維新Ⅱ  桜田門外の変

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 近江彦根藩三十五万石第十五代藩主井伊直弼(1815年~1860年)。井伊家は初代直政以来徳川譜代の筆頭で西国外様大名の謀叛に備えもっとも重要な近江国彦根領を与えられていました。そのため外様大名に比べ低く抑えられていた譜代大名の石高としては井伊家は破格でした。

 安政の大獄の張本人として後世のイメージが悪い直弼ですが、おそらく幕権が強かった江戸時代初期なら問題にならなかったはずだと思います。よく調べると江戸初期幕府の朝廷圧迫策は幕末に比べより酷い印象があるくらいです。禁中並公家諸法度はその典型でしょう。直弼自身も私は徳川家に対する忠誠心で安政の大獄を起こしたのだと考えています。実際、尊王攘夷思想は幕藩体制の根幹を揺るがすような重大事でした。

 が、時代はそのような幕藩体制維持で乗り切れるような生易しいものではありませんでした。欧米列強の植民地政策で東洋の小国日本は生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。それをよく理解している先駆者は特権階級よりは下級武士や自らの意思で教育を受けた庶民(地主階級)に多くいました。幕末維新期に活躍した志士たちは主にこれらの階級出身です。水戸学の総本山水戸藩、そして危機感を共有していた烈公徳川斉昭に世間の輿望が集まったのも頷けます。ところが大老井伊直弼は、危機感が決定的に欠落していました。攘夷派を徳川幕藩体制を揺るがす逆賊と捉え(それは多分に真実でしたが…)、徹底的な弾圧を加えます。

 直弼の憎しみの対象は第一に水戸藩でした。これが外様なら即改易ですが、まさか御三家に適用できるはずもなく斉昭の永久謹慎、攘夷改革派の家老安島帯刀(たてわき)と水戸藩士茅根伊予之介には切腹を命じます。さらには現藩主(斉昭の嫡男)慶篤にさえ登城禁止と言う厳しい処分を下しました。

 これは、天下の副将軍と自認していた水戸藩士のプライドを酷く傷つけます。慶篤に対する処分は後に撤回されますが、直弼に対する藩士の恨みは残り続けました。親藩の中でも特に格式高い徳川御三家が徳川家の家来にすぎない井伊ごときに侮辱されたと捉えたのです。これは当事者でないと理解できない心情でした。私はこの恨みが桜田門外の変に繋がった大きな要因だと思います。

 安政の大獄が始まって、水戸藩に降って湧いた孝明天皇の攘夷決行密勅問題で藩論は二つに割れます。直弼の処分に怒りを覚える攘夷派は、これを諸藩に配布し幕府に攘夷を決行させるべしと訴えます。一方、藩主さえ処分を受けたのだから密勅を朝廷に返上し幕命に従うべしという保守恭順派は真っ向から反対しました。攘夷派と佐幕派の対立は多かれ少なかれどの藩でもありました。水戸藩の場合は、大老井伊直弼の処断で死者まで出ているのですから対立はより先鋭化します。

 攘夷派の中でも、穏健派の武田耕雲斎(1803年~1865年、水戸藩参政)らはむしろ密勅を幕府に献上して幕府がどういう態度を取るか見極めるべしという意見でした。実はこれこそ幕府が最も嫌がる対応でした。攘夷を決行しなければ違勅になるし、実行すれば攘夷派の方が正しい事になって幕府の責任問題に発展するからです。直弼は水戸藩が最悪の対応をする事を恐れ密勅の朝廷への返上を厳命しました。この事が水戸藩内の両派の対立を修復不可能なまでに悪化させます。

 当然ながら、保守恭順派は既得権益を持つ上級藩士が多く攘夷過激派は現状に不満を持つ下級藩士が大半でした。過激派は同じ攘夷派でも武田ら穏健派を臆病者と罵り暴走します。そして、ついにはこの事態の元凶である赤鬼大老井伊直弼暗殺へと思い至るのです。ただ、水戸藩士の身分のままでの襲撃は藩改易の危険性があり彼らも脱藩して実行するという最低限の良識は持ち合わせていました。攘夷思想は当時の世論の主流で、水戸脱藩浪士の他にも薩摩藩らの脱藩藩士が加わります。

 襲撃計画の中心は、高橋多一郎・金子孫二郎らでした。襲撃の実行犯は18名。ほかに計画に参加した者13名。それ以外にも何人かの関与者がいました。1860年(万延元年)3月3日、江戸は春先には珍しい昨夜来の雪で深く積っていたそうです。この日は上旬の節句江戸城に登って賀詞を言上する日でした。大老であった井伊直弼彦根藩江戸本邸を午後9時ころ出発します。直弼の駕籠を警護する彦根藩士は士分26名、他に足軽を含めて総勢60名余だったと伝えられます。雪水で刀が濡れるのを恐れ一行は柄袋を付けていました。とっさの際に直ちに応戦することができない危険性はありましたが、まさか大老の行列を襲う者はおるまいと油断していました。

 事件は、一行が本邸を出て500mくらい進んだところで起きます。場所は江戸城桜田門近く。関鉄之助をはじめとする18名の実行犯は直弼の行列めがけて一直線に襲いかかりました。彦根藩士は、柄袋のためにとっさに刀を抜く事が出来ずまたたく間に直弼の駕籠は斬りつけられ首を打たれます。わずか煙管で三服するくらいの短い時間だったそうです。彦根藩側は当主直弼の他に藩士4名が即死、傷を負った者も4名が後に死に8名の被害者を出します。浪士側は1名死亡、深手を負って後に4名が亡くなりました。

 白昼の大老暗殺という大事件は当時の日本を震撼させます。特に彦根藩は水戸討伐を唱えるほど激高しました。安政の大獄で水戸に永久蟄居していた烈公斉昭は、この事件の衝撃で同年8月15日に急逝しました。世間では彦根藩に暗殺されたとも噂しますが真相は分かりません。時に井伊直弼46歳、徳川斉昭61歳。佐幕派と攘夷派の巨頭は奇しくも同じ年に亡くなりました。

 世情はこの事件の後騒然とします。1861年文久元年)の英国公使館襲撃、1862年坂下門外の変(老中安藤信正襲撃事件、正し一命は取りとめる)にも水戸脱藩浪士が関与したと言われます。彦根藩は、さすがに当主が暗殺されたと言われるのは世間の恥と思い(士道不覚悟として改易の危険がある)病死と届け出ました。事なかれ主義の幕府は、このままでは水戸藩彦根藩の戦争になりかねないと恐れ御三家の水戸藩はほぼお咎めなし、被害者の彦根藩に対しては襲撃で殺された醜態を罪に問い十万石減知という厳しい処分を下します。そういう対応をせざるを得なかったのは、直弼が攘夷派を厳しく弾圧していた事に対する世間の反発を考慮しての事でした。

 水戸藩内部の事件に対する衝撃も大きいものでした。当時藩の実権を握っていた保守恭順派は幕府の報復を恐れますます藩内の攘夷派を弾圧します。こうして水戸藩の攘夷派も次第に追い詰められていきました。そして、天狗党事件が起こります。

 次回は水戸天狗党事件の顛末を語る事にしましょう。