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水戸藩の幕末維新Ⅳ  水戸藩の終焉(終章)

 烈公水戸斉昭の第7子一橋慶喜(1837年~1913年)は、安政の大獄での謹慎処分後どうなったでしょう?1858年将軍継嗣問題は大老井伊直弼を中心とする紀州派(南紀派)が政争に勝ち徳川第14代将軍には紀州慶福(よしとみ)が決定します。慶福は13代家定の死去を受けて1858年10月25日第14代将軍となりました。名を改めて家茂(いえもち)と名乗ります。

 謹慎生涯隠居という厳しい処分を受けていた慶喜ですが、1860年安政七年)3月3日桜田門外の変大老井伊直弼が横死したことで運命が大きく変わりました。家定同様家茂も病弱だったためどうしても慶喜の力が必要だったのです。当時慶喜は実父斉昭譲りの俊英という評価がされていました。同年9月4日謹慎解除。1862年文久二年)には将軍後見職に就任します。

 実質的には慶喜江戸幕府を主催していると言ってもよい状態でした。そんな中水戸天狗党の乱が勃発します。当時京都にいて朝廷との折衝にあたっていた慶喜は、実家水戸藩尊王攘夷の思想を忘れ幕権保持に力を尽くしていました。天狗党慶喜なら理解してくれると思い京都に向かったそうですが、実際は天狗党討伐を強力に推進したのは慶喜自身でした。ここに慶喜水戸藩攘夷派との大きな感情的行き違いが生じます。

 残酷な処刑を受け天狗党は壊滅。一方、本国の水戸藩は家老市川三左衛門を中心とする諸生党が実権を握っていました。将軍後見職慶喜佐幕派水戸藩諸生党の利害は一致するはずでした。が、水戸藩内には弾圧を潜り抜けた攘夷派も生き残っていましたし中立派も多く、水戸藩の藩論として全面的に慶喜をバックアップする体制にはなりませんでした。おそらく藩内の感情として水戸学から逸脱した(と見られた)慶喜と距離を置こうという思いが強かったのでしょう。

 結局、慶喜は家格は高くとも大した実力のない養家の一橋家しか頼るものはなかったのです。現水戸藩主が実兄慶篤だということも微妙な関係に拍車を掛けたと思います。

 時代は大きくうねり始めていました。1864年7月禁門の変。同年8月第一次長州征伐。そして1866年(慶応二年)7月20日第二次長州征伐のさなか徳川幕府第14代将軍家茂は大阪城で病死します。享年21歳。他に強力なライバルもなく慶喜徳川幕府第15代、そして最後の将軍に就任しました。すでに薩長同盟は成り、倒幕派の動きは激しくなる一方です。慶喜は頭が良すぎるために幕府の将来を悲観し1867年(慶応三年)10月14日政権返上を朝廷に申し出ました。明治天皇は翌日これを勅許され、大政奉還が実現します。

 ところが、幕府内では会津藩桑名藩などの強硬派が弱腰の慶喜を突き上げ1868年(慶応四年)1月鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争へ突入するのです。倒幕派の優勢を見てもっともはやく反応したのは慶喜に従って京都本国寺に詰めていた水戸藩兵でした。彼らは朝廷に東下を請う始末です。徳川宗家を守るはずの御三家が酷い話だと思われるでしょうが、実は他の御三家尾張藩紀州藩も同様でした。これが時代の流れなのです。あれほど攘夷派を弾圧していた彦根藩でさえ孤立して滅ぼされる事を恐れ朝廷側に寝返りました。実際、江戸より西にある諸藩は、強固な佐幕派である桑名藩など一部の例外を除いて江戸幕府を見限り朝廷に付きます。例を上げると、時の老中だった稲葉氏の淀藩でさえ藩主の意向を無視し鳥羽伏見から敗走する幕府軍に門を閉ざし官軍(すでに錦旗を持っていた)に開城するほどでした。伊勢津藩(藤堂家)も一夜にして寝返り天王山上からそれまでの味方だった幕府軍を砲撃しました。

 最後まで幕府に殉じようとした奥羽越列藩同盟の純真さは涙を誘います。もっともこれも官軍の対応次第では抵抗は避けられたと考えます。奥羽諸藩の蜂起は多分に奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵の高飛車な態度で怒らせたのが主因ですから。関ヶ原で豊臣恩顧の大名がことごとく徳川方に付いたのとは全く逆の現象でした。時代の流れの恐ろしさを感じますね。

 幕末維新の動きにまったく積極的関与をしなかった水戸藩ですが、藩論を勤皇に統一するようにという勅書を受け藩主慶篤も朝廷への協力を決めました。こうなると藩でそれまで実権を握っていた市川三左衛門ら諸生党は孤立します。自分たちが追い詰められていくのに焦った諸生派は一時水戸城を占拠しますが、藩主を始め藩の大半が勤皇に傾くと不利を悟って退去、会津藩を中心とする佐幕軍に加わります。この間、藩主慶篤は没し水戸藩最後の藩主昭武(慶篤の弟)が立ちました。

 会津戦争は、佐幕派の市川率いる諸生党と征東軍に参加した水戸藩兵のまたしても同胞同士の凄惨な殺し合いになります。征東軍にはそれまで諸生党に弾圧され逼塞していた攘夷派も加わり激しく戦いました。まもなく会津藩の降伏で東北の戦争は終わります。しかし、降伏しても水戸藩攘夷派の復讐を受け皆殺しになると分かっている諸生党は藩兵が官軍に加わって手薄になっていた水戸城に秘かに舞い戻り城を奪取するのです。そこで武器弾薬を奪った諸生党は藩校弘道館に立て籠もりました。

 戊辰戦争の大勢とは全く関係ない水戸藩内の争いは自分たちで解決するしかありませんでした。水戸藩は家老山野辺義芸(よしつね)が藩兵を率い水戸城でこれと対峙します。弘道館の戦いは水戸藩最後の内戦でした。1868年10月、結局市川派は敗れ江戸方面に潰走します。そこから銚子、八日市場(千葉県)に逃れました。この一連の戦闘を松山戦争と呼ぶそうですが追手のために敗残兵はことごとく討ち取られます。その中にはかつて栄華を極めた市川三左衛門の姿はありませんでした。市川は戦いから巧みに逃れ江戸に潜伏しますが悪運は長く続かず1869年(明治二年)2月、江戸で捕えられ水戸に護送されました。市川は藩内攘夷派の激しい恨みを買っていたためその処刑も凄惨なものだったそうです。

 こうして水戸藩の維新は終わりました。いち早く尊王攘夷を唱えながら藩内の内訌のために時局に何ら寄与する事なく最後まで内輪だけの争いに終始します。明治4年1871年)7月14日、廃藩置県によって徳川御三家の一つ水戸藩はその役割を終えました。すでに歴史的使命を果たした水戸徳川家出身の最後の将軍慶喜も隠棲先の静岡で余生を過ごしていました。こうして日本は明治の文明開化へと進んで行くのです。