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幻の重慶侵攻作戦

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 上の戦闘序列(Order of battle)は、支那事変の際に計画された重慶侵攻作戦におけるものです。出典は『太平洋戦争のif』(秦郁彦編 グラフ社)です。昭和16年(1941年)11月5日に上奏された『帝国陸軍作戦計画第二章南方作戦ニ伴フ対支作戦』で大綱が決定しました。

 まさに対米開戦直前、戦争を有利に進めるために支那事変を一気に解決すべく国民政府の最終抵抗拠点重慶攻略を目指すものでした。ご覧になると分かる通り後の大陸打通作戦にも匹敵する規模です。北支方面軍からはほぼ全力(他に留守部隊として第12軍が残留)、中支方面軍からは最前線武漢三鎮にいた主力の第11軍が参加しています。

 作戦計画はこうでした。北支方面軍隷下の諸軍は関中(黄河が几状に湾曲する内部)の入り口潼関を突破し渭水盆地を西進、西安を攻略しつつ秦嶺山脈を越え漢中盆地、四川盆地に突入。中支方面軍の第11軍は、防備も堅く三峡の険で守られた長江沿いではなく(ただし陽動として攻撃は加える)いったん南下し湖南方面から山岳地帯を突破して貴州盆地に進出、そこから一気に北上して四川盆地重慶を叩くという作戦です。

 作戦地域は陝西省湖北省湖南省貴州省、そして重慶のある四川省という広大な地域にまたがりまさに乾坤一擲の大作戦だったと言えます。もしこれが成功していれば一気に国民政府は崩壊し戦争から脱落していたはずです。

 ただ、支那大陸の地理に詳しい方なら分かると思いますが、まず秦嶺山脈から漢中盆地までは比較的簡単に進めてもそこから四川盆地に入るには有名な蜀の桟道を越えなければなりません。また貴州省から四川省には割と簡単に入れますが、湖南省から貴州省への道は華南の山岳地帯を突破する必要があり近代装備の軍隊が進む際補給がとても困難であると思われます。分かりやすく表現すると規模をとてつもなく拡大したインパール作戦とでも言えるでしょうか。

 が、もし四川盆地に一部でも進出できた場合は歴史的故事からしても重慶政府は抗戦を諦めたかもしれません。作戦のカギは、補給の成否と陽動作戦の長江方面に敵主力をどれほど集められるかにかかっているでしょう。

 作戦図を見ると、私は南方の貴州ルートより襄陽から漢水沿いに漢中盆地に入る北支方面軍の別働隊の動きがキーポイントになるような気がします。別働隊がいち早く漢中盆地を押さえ秦嶺山脈を越えてくる北支方面軍の主力部隊と合流できれば、漢水を利用した補給線が確立でき北から四川盆地に入る作戦は案外成功したかもしれません。史実でも四川盆地に割拠する勢力を滅ぼしたのは北からの攻撃でしたから。

 南方ルートは、おそらく貴州盆地に入った時点で力尽きる可能性があります。そしてインパールの第15軍のようになったでしょう。


 史実では、あまりにリスクが高すぎるという事で作戦は中止になっています。そして支那戦線からは精鋭師団がことごとく南方に引き抜かれ大陸打通作戦時にはほとんど残っていないという絶望的状況になっていました。どうせ南方で壊滅するなら、この時大勝負してもよかったような気がしますが歴史の後知恵なんでしょうね(苦笑)。