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清教徒革命Ⅱ  国王と議会

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※                   スチュアート朝初代 ジェームズ1世



 ヘンリー7世の娘マーガレットの血をひくとはいえジェームズ1世は、イングランド人にとっては外国人です。国王が即位すべくイングランド入りした時、一つの小さな事件が起こりました。王の行列が滞在したノッチンガム州ニューアークで一人のスリが捕まります。ジェームズは裁判もせずいきなり絞首刑にしてしまいました。

 王権の強いスコットランドでは当たり前でも、見ていたイングランド人の目には異様に映ります。そしてこれがのちの清教徒革命と王家の行く末を暗示していたとも言えます。

 ロンドンに到着したジェームズ1世(在位1603年~1625年)は、盛大な戴冠式を挙げ正式にイングランド国王として即位しました。ジェームズは、自分が外国人なので国民に不人気なのは十分承知しています。ゆえに、王権神授説を唱え徹底的な王権の強化に努めました。これがイングランド議会の反発を生みます。

 イングランド議会は中世以来の伝統を持ち、貴族院は1066年のノルマンコンクエスト後に創設されたイングランド貴族によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所)から分化したのが始まりとされます。庶民院も1254年シモン・ド・モンフォール反乱の際彼が招集した各州を代表する2名の騎士と封建都市を代表する2名の市民(ブルジョワ)から構成された議会をその起源とします。ただしここで言う庶民とは、一般市民ではもちろんなく貴族でない者つまり地方の地主階級であるジェントリー(郷紳 ジェントルマンの語源ともなった)と都市の有力市民の事である事は言うまでもありません。

 イギリス議会、特に貴族院は1215年ジョン王にマグナ・カルタ(大憲章)を認めさせるほど強力で、国王と言えど議会と対立して国を統治するのは困難だという存在でした。前の国王、エリザベス1世は議会操縦が巧みで小さな抵抗はあったもののほぼ女王の意向通りに議会を動かすことに成功します。ところがイングランド議会の特殊性を理解できてなかったジェームズ1世は、いたずらに議会と対立するのみでした。


 またジェームズ1世イングランド国教会においても清教徒ピューリタン、イギリスにおけるカルヴァン派プロテスタント)とカトリックの両極を排除することを宣言し、清教徒カトリックの双方から憎まれます。ジェームズはますます意固地になり王権神授説にのめり込み議会を無視しました。一方、議会側はコモン・ロー(普通法)の概念を盾に取り抵抗します。コモン・ローとは簡単に言うとイギリスの長い伝統から生まれた慣習法で例え王であろうとこれに反する行動はできないという主張でした。そしてイングランドにおいては大多数の国民もコモン・ローの考え方を支持したのです。

 1621年の第3議会で国王と議会の対立は決定的になります。ジェームズ1世の側近で大法官の重職にあったフランシス・ベーコン収賄の罪で議会で弾劾されたのです。ベーコンは収賄は認めたもののそれによって法を曲げることはなかったと主張しました。実は当時イギリス社会では便宜を図ったくれた者に対する贈与が一般化しており収賄との境界線は曖昧だったのです。ベーコンの弾劾は議会が国王に痛手を与えるための手段でした。

 怒ったジェームズ1世はベーコンの禁固を解き、それに対する議会の抗議文をずたずたに引き裂いて議会を解散させます。また議会に諮らず関税を決めたりしてその対立は激化の一途を辿りました。そんな中、ジェームズ1世は1625年亡くなります。後を継いだのは息子のチャールズ1世。

 国王と議会の対立を引きずったまま即位した新国王チャールズ1世。彼の治世に波乱が起こるのは目に見えていました。次回は、清教徒革命の勃発とクロムウェルの台頭を描きます。