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清教徒革命Ⅴ  国王処刑

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 ネースビーの戦いの勝利によって優勢になった議会軍ですが、内部では戦後処理を巡って深刻な対立が生じます。穏健派の長老派と急進派の独立派でした。長老派というのは清教徒ピューリタン)の一つの宗派で教会を長老制度で統一し他の宗派を許さず国民に厳格な宗教的統制を加えようとする一派です。スコットランドでも長老派が優勢で、彼らは宗教においては長老派支配の確立、政治においては法の下での議会支配の確立と王権の制限で利害が一致していました。

 長老派にはロンドンの大商人や地方のジェントリー階級の中でも大規模地主が多かったといわれます。門閥貴族ほどでないにしても莫大な財産を有する所謂持てる者だったわけです。既得権益を持っているだけにそれを失いかねない急進的な共和制には反対でした。国王の支配力が弱まれば良いだけで、王政廃止などという過激な動きは絶対に容認できないのです。議会派の大多数は長老派で占められます。

 ところがこの戦争で台頭してきたクロムウェルら新興勢力は、新たに得た権益を失わないためにも王政を廃止し共和制にすることが至上命題でした。彼らを独立派と呼びます。独立派は宗教的には各個人、各教会の独立を支持し比較的寛容でしたが、その政治的主張は過激でした。独立派は、さらに急進的左派の水平派とに分裂します。

 当時の議会の勢力図では、長老派が206名だったのに対し独立派はわずか88名に過ぎませんでした。ただ独立派はクロムウェルの新模範軍という軍隊を握っていた点が有利だったといえるでしょう。1647年10月、ロンドン近郊パトニーで水平派の提出した人民協約を巡って大討論会が開かれます。人民協約とは共和制を主張し、議会に対する人民の優越、各種の人権を謳った当時ではありえない革新的な主張でした。さすがにこれは共和制を支持する独立派からも危ぶまれ討論は3日で打ち切られます。

 長老派は、独立派と水平派の対立を利用すれば自派が優位に立てると踏みました。その頃国王チャールズ1世はスコットランドに亡命したもののそこで長老派同盟軍に捕われイングランドに送り返されていました。捕虜となっていたチャールズも議会派内の対立を利用し策謀を巡らせます。ところがこの動きは、逆に議会派を警戒させ国王が存在する限り革命が成功することはないと覚悟させることとなります。

 クロムウェル自身は立憲君主制を支持していたとされますが、国王のこのような姿を見て態度を硬化させます。チャールズ1世は何度も脱走しては挙兵、敗北、逮捕を繰り返しました。クロムウェルは、国王を廃し王太子を次の国王に据える案も持っていたそうですが自分を支持する独立派の大勢が国王処刑に傾いたため覚悟を決めます。クロムウェルは政治的利害では一致する水平派とも結びました。

 1649年1月、議会は国王を裁くため特別に高等裁判所を設置します。135名の委員が任命されますが、当時の感覚として国王を処刑することは冒涜行為だと考える者が多く半数以上が就任を拒否したといわれます。1月27日、ついに国王に判決が下されました。

 「チャールズ・スチュアートは暴君・反逆者・殺人者、この善良なものたちに対する公敵として斬首による死刑に処す」

 判決が下った時委員の一人フェアファックスは死刑に賛成せず、彼の妻は議長のクロムウェルを指さして
クロムウェルこそ国家に対する反逆者です」と絶叫したと伝えられます。

 1649年1月30日、スチュアート朝第2代国王チャールズ1世は処刑台に上りました。国王が斬首された瞬間、見物していた数千人の群衆はうめき声をあげたそうです。有力市民、ジェントリー階級は革命を支持しても、一般国民の間では長い歴史を持つ王家に対する信頼がまだ残っていたのです。しかし、新模範軍という強力な軍隊を持つ議会派に逆らえば死を意味します。清教徒革命は一般国民の大多数の支持を得ることなく軍による独裁政権として続くこととなりました。

 次回は、革命政権の中で権力を掌握したクロムウェルの生涯を描きます。