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清教徒革命Ⅳ  ネースビーの戦い

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 クロムウェルが頭角を現したのは、エッジヒルの戦い(1642年10月)で議会派が敗戦した直後だと言われます。彼は議会軍のジョン・ハンプデン大佐に向かって「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」と語ったそうです。

 実際、マスケット銃の時代に入って国王軍はそれに対する騎兵の使い方もよく研究していました。とうぜん精強なマスケット銃隊も擁しています。寄せ集めの議会軍に勝ち目はありませんでした。フランスやドイツで最終的に皇帝軍や国王軍が農民反乱に勝利したのも同じ理由です。

 クロムウェルは、ヨーマン(イングランド農民)の清教徒ピューリタン)を中核とし信仰心に支えられた軍隊を作ります。彼らに激しい訓練を施し軍規も厳しいものでした。騎兵が中心だったのでこれを鉄騎隊と呼びます。1644年7月マーストンムアの戦いでその真価は早くも発揮されました。1000騎の鉄騎隊とともにこの戦いに参加したクロムウェルはここで大いに活躍し勝利に貢献します。

 マーストンムアはヨークの西方10kmにあり、国王軍はここに騎兵6千、歩兵1万1千、大砲14門、議会軍は騎兵7千5百、歩兵1万4千、大砲40門を集めました。珍しく双方1万を超える比較的大規模な戦いでしたがそれだけ重要な戦場だったといえます。当時の国王派と議会派の勢力範囲を示すと国王派はスコットランドの近いイングランド北部とウェールズコーンウォール半島のある西南部。これに対し議会派は中部から南部と東部のロンドンを含む大都市圏が地盤でした。ただ単純に色分けできないのは同じ州のうちでも既得権益を持っている大地主が一族郎党国王派に参加したのに対し都市は議会派に属するという複雑な勢力関係になっているところも多かったのです。おそらくですがジェントリーでありながら国王派に参加した者たちは、国教会かカトリックの信者で清教徒の多い議会派に反発していたのではないかと考えます。


 自らの軍隊をもったクロムウェルは、議会派の中で次第に台頭していきます。クロムウェルは自分の軍隊を拡充しマスケット銃隊も含めた新模範軍(ニューモデルアーミー)を創設しました。こうなってくると新模範軍=議会軍となってくるのも時間の問題でした。それと同時にクロムウェルは次第に議会派を牛耳るようになっていきます。

 1645年6月14日、両軍はノーサンプトンシャー州マーケット・ハールバラ近郊ネースビーで激突します。議会派はスコットランド教会同盟軍と結びこのころイングランド北部を制圧しつつありました。チャールズ1世は、最初寄せ集めの議会軍を侮っていたのですが次第にクロムウェルの新模範軍に押され始め焦っていたのです。チャールズの考えとしては、ここでクロムウェルの新模範軍を粉砕し同時に議会派に制圧されていたイングランド北部を回復することを目指しました。ただ、北部平定に軍隊を派遣しこの戦場に全軍を集結できなかったのが国王軍にとって悔やまれました。

 両軍の兵力を示しましょう。国王軍は騎兵7千、歩兵6千。議会軍は新模範軍を中核とし騎兵4千百、歩兵3千3百。重要な戦いにしては双方兵力が少ないのが気になります。両軍とも各地に部隊を派遣し決戦場に主力を集められないのが悩みでした。戦闘は午前10時国王軍が前進した事によってはじまります。右翼に布陣していたクロムウェル(当時中将)は、両軍の間にあるダストの丘に駆け上がってこれに対抗しました。左翼では、国王軍右翼のルパートが議会軍左翼のアイアトン少将の部隊に猛攻を掛け支えきれなくなったアイアトンは間もなく捕虜となります。このままルパートの軍が左に旋回し議会軍の右翼を包み込むように包囲すれば間違いなく国王軍の勝利でした。数の上でも国王軍が上回っていたのですから。

 ところがルパートは、敗走するアイアトン軍の追撃に夢中になり戦場から離れていきます。歴史ではその後の展開を左右する決定的瞬間がありますが、この時のルパートの戦場離脱もその一つ。まさに致命的な判断ミスでした。ですから両翼の指揮官は戦況判断ができる有能な人材でなければならないのです。

 9割方勝っていたはずの国王軍は、右翼が欠けたために優位を生かせなくなります。両軍の中央では激しい銃撃戦とパイク(長槍)の応酬が繰り広げられました。その間、クロムウェル直卒の新模範軍は国王軍左翼を圧迫しつつありました。やはり信仰心に支えられた鉄の規律が最後にものを言ったのです。クロムウェルはチャールズ1世の中軍に迫ります。国王は親衛隊にクロムウェルを撃退するよう命じました。ところがこの命令が誤って伝えられ親衛隊は後退してしまいます。

 クロムウェルは絶好の機会を見逃しませんでした。国王軍にできた致命的間隙に向けてすかさず突撃命令を下したのです。国王軍はこれを支えきれませんでした。この時、ルパートの追撃を振り切ったアイアトン軍も到着し議会軍は両翼から国王軍を包囲し始めます。本来なら国王軍がこうなるはずの展開でしたが完全に逆の形となりました。

 国王軍は総崩れとなります。チャールズ1世も身一つで戦場を脱しました。議会派はこの勝利をイングランド全土に宣伝し日和見を決めていた勢力もどんどん議会派に参加して行きました。国王軍は敗戦の痛手を回復できず、その後1年内戦は続きますが結局チャールズはスコットランドに亡命を余儀なくされます。いや亡命という言葉はおかしいですね。スコットランドも同君連合で国王なのですから。


 クロムウェル率いる議会軍は、完全に国王派に勝利し清教徒革命は無事成功するかに見えました。ところが議会派の優位が確定すると今度は議会派内部で戦後処理を巡って対立が表面化していきます。議会派の大勢を占めるのは穏健な解決を望む長老派でした。一方新興勢力のクロムウェルら独立派は王政を廃止し共和制にすべきだという過激な思想を持っていました。両者の対立は次第に深刻化していきます。

 次回、議会派内部の対立と国王チャールズ1世処刑を描きます。