鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

北部(きたべ)王家と蠣崎の乱

イメージ 1

鎌倉時代までの陸奥北部(現青森県)には旧弘前藩領にあたる西半分を占める津軽郡と、旧南部藩領の東部糠部(ぬかのぶ)郡の二つしかありませんでした。これは開発の遅れた辺境の地だったことも影響していたのでしょう。しかし、時代が経るにつれ津軽郡は田舎郡、平賀郡、鼻輪郡と外三郡の馬郡、江流末郡、奥法郡とに分かれ俗に津軽六郡と呼ばれました。

 糠部郡も中心地の三戸や八戸がある三戸郡と、北部の北郡とに分かれます。北郡はさらに下北半島部の下北郡と、半島の根元、三沢などがある上北郡とに分かれました。下北半島の名前の由来はこの下北郡から来ています。

 稲作の技術や稲の品種改良によって北限が上がり、少なくとも鎌倉時代末期には青森県でも稲作が広く行われていたと推定します。ただ、辺境であることには変わりなく現地出身の豪族安東氏や鎌倉から下向した工藤氏、曽我氏などの地頭御家人たちも他の地方から移民を奨励しなんとか米の増産に励みました。しかし南北朝時代、この地方はまだまだ荒蕪地が多い人口希薄地だったのです。

 辺境の地には、中央の政争に敗れた勢力が敵対勢力の追及を逃れ流れてくるのが常です。各地に残る平家落人伝説は何よりもそれを物語っています。陸奥の地でも南朝北畠氏の後裔たる浪岡御所北畠氏などが有名ですよね。

 ここ下北半島も例外ではなく、北部王家という後南朝勢力が存在していました。「青森県の歴史」(宮崎道生著 山川出版)によると物語の発端は1347年。当時は北朝年号と南朝年号があって混乱するので以後も西暦で記します。鎌倉時代末糠部郡八戸に上陸した南部氏は郡内各地に一族を配置し急速に勢力を拡大しつつありました。南部氏の糠部入部に関しては後に記事にする予定ですが、最初に上陸し八戸に根城を築き土着した庶流の八戸南部氏は、南朝勢力と強固に結びつき宗家の三戸南部氏を凌ぐ勢いでした。

 八戸南部で一番有名な人物は、陸奥北畠顕家を助け各地を転戦し最後は和泉国石津で主君顕家と共に戦死した南部師行(もろゆき 不詳~1338年)ですが、子供がいなかったため八戸南部氏は弟の政長が継承します。政長の子が信政(不詳~1348年)です。1347年当時信政は吉野の行宮に仕えていました。おそらく伯父師行に従って陸奥から上っていたのでしょう。

 あるとき信政は、南朝後村上天皇から聖旨を頂き大塔宮護良(もりなが)親王の遺児八幡丸を奉戴することになりました。英邁を謳われながら足利尊氏と対立し暗殺された悲劇の人物護良親王興良親王以外に子供がいたことは驚きですが、親王宣下されなかったところを見ると母親の身分が低かったのでしょう。「青森県の歴史」には八幡丸は良尹(ながただ)と名前を変えたとだけ記され、親王とは書いてないのです。

 そもそもなぜ南部信政に八幡丸が託されたかというと、以前後村上天皇から
「信政よ、朕は常々気に掛けていることがある。それは亡き兄護良親王の遺児八幡丸のことじゃ。八幡丸も成長し十六歳になる。兄に似て智勇に優れた若者になった。できればどこか一国を与えて南朝の中で働かそうと思うが良き国はないか?」

 と下問があり、これに対して信政は
「それならば適当な国があります。我が領地の北、日ノ本の北の端にまだ領主のいない土地があります。海に囲まれ山と原野が連なりその土地は広大、将来は(開発が進めば)一万の兵を養うことも可能でしょう」と答えたそうです。

 信政が示したのは下北半島でした。ただしいくら荒蕪地とはいえもともとは津軽の安東氏の領地、無主の地というのは言いすぎでしょう。この話かなり眉唾くさいのですが、一応史実として続けましょう。南部信政は八幡丸を下北半島の順法寺城に入れ自分の妹を配しました。八幡丸が元服し良尹と名乗ったことは前に述べましたが、新田氏を称します。臣籍降下して源氏になるのは分かるのですがいきなり新田氏を名乗るのは理解に苦しみます。もしかしたら新田氏の一族がつき従いその主人となったために新田氏を称したのかもしれません。

 ところで順法寺城は現在のむつ市城ヶ沢にあります。海上自衛隊大湊航空隊基地のちょうど裏手の沿岸部にありました。宝治三年(1249)安東盛親によってはじめて築城されたとされますから、やはりもとは安東氏の領地だったのでしょう。源(新田)良尹は陸奥下向に先立ち従三位民部卿に任ぜられます。良尹の後は息子の尹義(ただよし)が継ぎますが早世したため、後村上天皇の皇子宗尹(むねただ)親王をたてて三代義祥(よしなが)としました。これを北部(きたべ)王家と呼びます。

 四代義邦の時代に南北朝合一がなりますが、義邦はこれに従わず五代義純の時代にようやく上洛して将軍足利義量に拝謁、誼を通じました。北部王家の領地である下北半島はほとんど米を産しない荒れた土地でしたが、野沢出山から金を産出し潤っていました。義純は管領畠山満家に莫大な献金をしその娘を娶ったといいます。

 誇りある南朝の皇統に連なる者が北朝の幕府、しかも管領にしっぽを振る姿は北部王家の家臣たちには苦々しく映ります。特に重臣蠣崎(かきざき)蔵人信純はその筆頭でした。蠣崎氏は甲斐源氏の庶流とも言われますが出自ははっきりしません。安東氏あるいは南部氏の一族とも言われます。むつ市川内町蠣崎の地を領していました。

 足利将軍家に降り安定した地位を手に入れた義純は、野沢出山の金を使って豪奢な生活を始めます。我慢の限界に達した蠣崎蔵人はついに義純を暗殺、ここに北部王家は滅びました。当時は八戸南部氏も宗家の三戸南部氏も足利幕府に帰順していましたが、後南朝推戴を旗印にする蠣崎蔵人とその一党を滅ぼすことに躊躇し勅命を待ってようやく重い腰を上げました。おそらく蠣崎蔵人は、北部王家に連なる者を奉じていた可能性があります。

 蠣崎蔵人の行動を南朝に対する忠誠心から出たとする意見と、南朝推戴を大義名分にした蔵人の下克上だとする見方があります。彼のその後の行動を見るとどうも後者の可能性が高いです。蔵人は南部氏と敵対していた安東氏や葛西氏と結び対抗しますが、八戸南部政経は大軍を率いて海路奥戸(おこっぺ 現大間町)に上陸、背後から蠣崎城を攻撃しました。

 蠣崎蔵人は、奇襲攻撃に敗北し城も陥落。自らは逃亡し渡島(北海道)の松前に逃れます。この蠣崎蔵人信純こそのちの蠣崎(武田)信広だったと「青森県の歴史」では推定しています。ただ異論もあり、年代的に信広の義父(妻の父)季繁(すえしげ)の可能性が高いとも言われます。

 私の個人的な考えでは、蠣崎信広(1431年~1494年)と蠣崎蔵人の乱の起こった1457年(新田義純殺害は1448年)は年代的に無理はないと感じますけどね。生きざまも蠣崎蔵人信純と蠣崎信広で似ているような気もしますし(笑)。皆さんはどう思われますか?