
この楼蘭王国は、前の王国と同様アーリア系民族であったことは間違いなさそうですが使用文字が西方のクシャン朝文字と酷似しているという指摘があります。あきらかに王国の支配層が代わっているのですが、これに関して古来から楼蘭王国はクシャン朝に侵略された、あるいは一度滅亡した王国をクシャン朝からの移民団が再興し再び楼蘭王国を名乗ったなどと様々な説があります。
支那と西域を結ぶシルクロード交易を支配し繁栄していましたが、匈奴の冒頓単于の攻撃を受け敗北、西に逃れてトハリスタン(大夏、現在のアフガニスタン北部からタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにまたがる地)を征服してそこに落ち着いた民族です。
ですから再び祖先が住んでいた地に戻って来る事も不自然ではありません。しかしクシャン朝から楼蘭までの間のオアシス諸国がクシャン朝の侵略を受けた形跡がないので、どうも侵略説は違うような気がします。とすれば移民説が有力となっていますが、移民としても国を建国できるだけの大規模な移民団(少なくとも数千、おそらく万単位)を送り込んだはずですからタクラマカン砂漠越えが無事にできるとは到底思えません。
という事で移民したルートが問題になってくるのです。ここからは私の独断で何の資料的裏付けもないのですがあるルートが浮かんできます。
チベット東北のツァイダム盆地とトハリスタン、地図で見ると相当離れていて連絡は途絶えているように見えます。しかし実は崑崙山脈南麓のルート(崑崙バイパス)を通じて連絡は続いていたと私は考えます。その状況証拠として敦煌西域の南山中(おそらく崑崙山脈南麓からチベット高原にかけて)に月氏の余種である婼羌(しゃくきょう?)や葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおりそれぞれ酋長がいたという支那の記録が残っています。
クシャン朝の移民団はこの崑崙バイパスを通って楼蘭の地に至ったのではないでしょうか?しかも新生楼蘭王国は灌漑を行いオアシスで農業を営んでいたそうですから移民団の中にツァイダム盆地で農業をしていた小月氏の人たちが相当含まれていたのではないかと考えます。
都市としての楼蘭は7世紀ころまで続いたそうですが、ロプノールが移動し河道も変わったためうち捨てられ砂漠に消える運命でした。