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楼蘭(鄯善ぜんぜん)第二王国成立の謎

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 タクラマカン砂漠に栄えたオアシスの通商国家。さまよえる湖ロプノールの移動と共に衰退し砂漠に消えた蜃気楼。20世紀初頭、学者・探検家であったヘディンによって発見された楼蘭の美少女のミイラ。
 
 楼蘭は我々日本人にとってシルクロードの象徴ともいうべき国で、ロマンを沸き立たせます。
 
 
 楼蘭支那側呼称では鄯善(ぜんぜん)と呼びますが、この国が二度興って滅びた事をご存知でしょうか?
 
 
 楼蘭第一王国は、紀元前10世紀ころにはすでに存在していたともいわれます。はっきりと文献にあらわれるのは史記によると紀元前2世紀。
 
 漢と匈奴という東アジアの二大国に近いため常にこれらの勢力の間で揺れ動き、最後は後漢の侵略をうけ傀儡国家となり消息が分からなくなります。
 
 その後しばらく楼蘭王国は記録が乏しくどうなったか分からなくなりました。しかし2世紀後半後漢が内乱で西域の統制力を失うと再び楼蘭の名前が出始めます。
 
 この楼蘭王国は、前の王国と同様アーリア系民族であったことは間違いなさそうですが使用文字が西方のクシャン朝文字と酷似しているという指摘があります。あきらかに王国の支配層が代わっているのですが、これに関して古来から楼蘭王国はクシャン朝に侵略された、あるいは一度滅亡した王国をクシャン朝からの移民団が再興し再び楼蘭王国を名乗ったなどと様々な説があります。
 
 遠く離れたクシャン朝(仏教を保護したカニシカ王で有名)と楼蘭王国、一見何の関係もなさそうですが実は関係大ありなんです。
 
 というのもクシャン朝を建国したのは月氏という印欧語族に属するアーリア系遊牧民族で、もともとは甘粛回廊からタリム盆地にかけて広く分布していた民族でした。
 
 支那と西域を結ぶシルクロード交易を支配し繁栄していましたが、匈奴冒頓単于の攻撃を受け敗北、西に逃れてトハリスタン(大夏、現在のアフガニスタン北部からタジキスタンウズベキスタントルクメニスタンにまたがる地)を征服してそこに落ち着いた民族です。
 
 月氏の有力氏族からでたのがクシャン朝で、中央アジアから北インドにまたがる大帝国を築きます。第4代カニシュカ1世(カニシカ王)の時代に最盛期を迎えました。
 
 
 ですから再び祖先が住んでいた地に戻って来る事も不自然ではありません。しかしクシャン朝から楼蘭までの間のオアシス諸国がクシャン朝の侵略を受けた形跡がないので、どうも侵略説は違うような気がします。とすれば移民説が有力となっていますが、移民としても国を建国できるだけの大規模な移民団(少なくとも数千、おそらく万単位)を送り込んだはずですからタクラマカン砂漠越えが無事にできるとは到底思えません。
 
 
 という事で移民したルートが問題になってくるのです。ここからは私の独断で何の資料的裏付けもないのですがあるルートが浮かんできます。
 
 私の説を述べる前に、月氏西遷直後の状況を見てみましょう。月氏匈奴の攻撃を受けた後実は二波に分かれて逃亡します。大半はタリム盆地を西に逃げトハリスタンに落ち着きました。これを大月氏と呼びます。
 
 一方、一部は現在の青海省のあるツァイダム盆地に逃れました。これを歴史上小月氏と呼びます。
 
 ツァイダム盆地は、黄河の源流地帯でもあり遊牧に適した土地でした。水源も豊富なことから農業もでき小月氏はここで生き伸びました。
 
 
 チベット東北のツァイダム盆地とトハリスタン、地図で見ると相当離れていて連絡は途絶えているように見えます。しかし実は崑崙山脈南麓のルート(崑崙バイパス)を通じて連絡は続いていたと私は考えます。その状況証拠として敦煌西域の南山中(おそらく崑崙山脈南麓からチベット高原にかけて)に月氏の余種である婼羌(しゃくきょう?)や葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおりそれぞれ酋長がいたという支那の記録が残っています。
 
 私はクシャン朝本国と、同族である小月氏は崑崙バイパスを通じて連絡があったと見ています。チベット高原は歩いて渡るには困難ですが馬なら簡単に走破できると思います。
 
 
 クシャン朝の移民団はこの崑崙バイパスを通って楼蘭の地に至ったのではないでしょうか?しかも新生楼蘭王国は灌漑を行いオアシスで農業を営んでいたそうですから移民団の中にツァイダム盆地で農業をしていた小月氏の人たちが相当含まれていたのではないかと考えます。
 
 
 第二楼蘭王国も長くは続きませんでした。支那本土は後漢から三国時代、そして五胡十六国の大動乱時代へ突入します。
 
 混乱の余波は楼蘭にも及び、最後は華北を統一したモンゴル系鮮卑族の建てた北魏に滅ぼされました。西暦445年の事です。
 
 
 都市としての楼蘭は7世紀ころまで続いたそうですが、ロプノールが移動し河道も変わったためうち捨てられ砂漠に消える運命でした。