

しかし、秦末から漢初にかけて匈奴に頭曼、冒頓という二人の英主が登場してから北方の勢力地図は大きく変わりました。頭曼単于(ぜんう、匈奴をはじめとした遊牧国家の初期の君主号)は、秦が内乱で衰えたすきに一時秦に奪われていたオルドス地方を奪回。ついで息子の冒頓単于の時に最大の強敵であった東胡を撃破、東胡は東方に逃れ満州の鮮卑山に逃れたグループと烏恒(うがん)山に逃れたグループに分かれます。
東胡は地名をとって鮮卑と烏恒を名乗り、しばらく逼塞の時を迎えました。
次に冒頓は西方の敵、月氏に矛先を向けました。月氏は民族系統が不明ですが最近の発掘調査からアーリア系民族であったといわれます。その故地には諸説あって、敦煌付近が中心地であったという説と、アラル海アムダリア川流域が故地で東方に進出したという説、あるいは中心地はシルクロードを抑える甘粛回廊に移っていたなど諸説あってはっきりしません。
だいたい漢の孝文帝(前180年~前157年)の時代でした。
大月氏はイシク湖畔(天山山脈北西、キルギスの北)に移動しました。しかしここにはすでに塞(さい、サカ族)という民族がいたとされます。大月氏は塞を駆逐しひとまずイシク湖畔に落ち着きます。これも世界史、なかでも遊牧民族の歴史ではよくあること。弱肉強食が当たり前、厳しいようですが負ける方が悪いのです。
ただ、塞と大月氏さらにはスキタイを同一民族とする研究者もおり(どちらもアーリア系で共通している)はっきりした事は分かりません。
大月氏にとってイシク湖畔も安住の地ではありませんでした。匈奴は同じ遊牧民族であった烏孫に命じて大月氏を討たせます。敵は徹底的に殲滅するのが草原の掟なのでしょう。大月氏はここでも敗北しさらに西へ逃れなければなりませんでした。
しかし、烏孫の昆莫(呉音:こんまく、漢音:こんばく、君主の呼び名)猟驕靡(りょうきょうび)が野心家であったことが功を奏しました。猟驕靡は匈奴の力を利用してジュンガリア盆地からイシク湖畔までの遊牧に適した土地を占領すると公然と自立し匈奴と敵対するようになります。烏孫も匈奴も月氏どころではなくなりました。
大月氏はソグディアナ(アラル海にそそぐアムダリアとシルダリアの両大河に挟まれた肥沃な地)に達します。さらに大月氏はそこから南、トハリスタン(大夏、ギリシャ人国家バクトリア)を征服し新国家を建設しました。
大月氏は五翕侯(ごきゅうこう、休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯)を置いてこの地を分割統治します。
ちなみに、漢の使者張騫が来朝したのは大月氏が大夏を征服し新しい国を建てた頃でした。漢は大月氏が恨みをもっている匈奴を共同して倒すために同盟を求めますが、人口百万とも称される豊かな大夏の地に安住していた月氏は同盟の申し出を断りました。張騫はなすすべもなく月氏の国を去ります。
それから100年たちました。五翕侯のなかで貴霜(クシャン)翕侯が次第に勢力を拡大していきます。時の貴霜翕侯丘就卻(クジュラ・カドフィセス)は他の四翕侯を武力で滅ぼし貴霜王を名乗りました。
これが世界史で有名なクシャーナ朝(クシャン朝)の始まりです。

(後編につづく)