
西暦78年即位説、128年即位説、144年即位説などがあってはっきりしませんがだいたいニ世紀ごろの人物であろうといわれています。
カニシュカ1世はクシャーナ朝の最盛期をもたらした国王です。彼の時代にガンジスまで達する北インドをほぼ統一し首都をプルシャプラ(現ペシャワール)に定めました。北はパミール高原を越え西は同じアーリア民族であったパルティアに接します。中央アジアからイランを通ってトルコに抜ける所謂シルクロードの支配権を巡って両者は激しく戦いました。
パルティアの宿敵だったローマは、このクシャーナ朝に目をつけパルティアを通らずアレキサンドリアから直接海を渡ってインド洋を通る海洋貿易ルートを確立したともいわれます。ただ海の交易路はすでに紀元前から存在していたのは確実なのでローマとクシャーナ朝の連絡路が新たに整備されたということかもしれません。
バクトリアのギリシャ・ヘレニズム文化、インドからもたらされた仏教文化はクシャーナの地で融合し花開きます。有名なガンダーラ仏教美術はまさにクシャーナ朝治下のアフガン東部パキスタン西北部のガンダーラの地で栄えたものでした。
しかし満ちれば欠けるは世の習い、英主なき後の王朝は緩やかな衰退を見せ始めます。一説では征服事業にともなう人民の負担が増大し、その反感を受けたカニシュカ1世の息子コータン王が父を暗殺したともいわれますが伝説にすぎないかもしれません。
後を継いだのは太子フヴィシュカでしたから。
フヴィシュカはさらに西方に国土を拡げたといいますが、帝国の中心は人口の面からも経済力の面からも北インド、ガンジス川上流にあった副都マトゥーラに移っていました。フヴィシュカの治世も40年。ついでヴァースディーヴァ1世(波調)が即位します。彼の時代は3世紀頃。中国魏に使者を送った記録が残っています。
クシャーナ朝にとって間の悪い出来事は続きました。今度はインドでチャンドラグプタ1世(在位320年 - 335年頃)がグプタ朝を建国、インドにおけるクシャーナ朝領を次々と蚕食していきました。グプタ朝二代サムドラグプタ(在位335年頃 - 376年頃)の時代にはクシャーナ朝はインドにおける領土をことごとく失いインド亜大陸から叩き出されます。
こうしてアフガニスタン、カブールの一地方勢力に落ちぶれたクシャーナ朝ですが滅亡の時期ははっきりと分かりません。といいますのも衰退の過程でいくつもの小王国に分裂し最後は西から進出してきたササン朝ペルシャの支配下に置かれるからです。ササン朝第五代国王バハラーム2世(在位276年~293年)の時代です。
以後クシャーナ朝はササン朝の王族を国王とする傀儡国家になります。ですから滅亡時期ははっきりとは分かりませんが大月氏の後裔であったクシャーナ朝は3世紀末には滅んだといえます。ササン朝支配のクシャーナ朝は、月氏クシャーナ朝と区別するためクシャノササン朝と呼ばれます。
5世紀中ごろ、嵐は再び東方から起こりました。エフタル(白いフン族、白匈奴)と呼ばれる謎の民族が中央アジアに勃興、小国に分裂しながらも余喘(よぜん)を保っていたクシャーナ朝の残存勢力(キダーラ朝)を滅ぼしトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを制圧します。
大月氏の長い旅の終着点はどこだったのでしょう?いまアフガニスタンの地や、パンシャブ地方、トハリスタンに大月氏の痕跡はほとんど残っていません。わずかにガンダーラの仏教遺跡といくつかの都市遺跡、古墳がのこるのみ。
シルクロードはあまりにも多くの民族が行き交いました。しかし一瞬ではあっても歴史に輝ける痕跡を残せただけ幸せだったのかもしれません。それ以外の多くの民族は流浪の末消えゆくのみでしたから…。
(完)