俗に漢は火徳によって天下を取ったので漢の高祖劉邦は火徳の象徴である赤龍の生まれ変わりであるなどという事があります。
古代支那人は、世の中の森羅万象を陰と陽に分け、さらに木火土金水の五行で説明しました。これは西洋における地水風火の4大元素の思想に通じるもので、例えば同じ木の要素でも陽に当たるのが木の兄(甲)、陰に当たるのが木の弟(乙)となります。五行それぞれに陰陽がありますからこれがすなわち十干です。
一方、四季に関しても五行を当てはめ春なら木、夏なら火、秋なら金、冬なら水、そして各季節の最後、次の季節との境目を土と定めました。土用の丑の日の土用とはこのことです。一季節三カ月ですから3×4で12でこれに子丑寅などの十二支を配しました。一説では十二支は黄道十二宮から取ったともいわれますが煩雑になるのでここではこのくらいにとどめておきます。
陰陽五行思想の根幹がこの十干十二支である事は理解できたと思います。
例えば伝説の支那の帝王である黄帝を黄土に初めて文明を開いたということで土性と定め、次の夏王朝が金性、商(殷)王朝が水性、周王朝が木性、漢王朝が火性の徳をもって天下を治めたという思想です。この場合周と漢の間にある秦王朝は閏で正統ではないという見方です。
このように木→火→土→金→水という関係は、相生(そうしょう)の関係と言い前者が後者を生みだす関係です。陰陽五行説では相生の関係は前者が後者を生む時エネルギーを奪われるので言わば禅譲によって王朝が交代したという事(建前ではあるが)を説明しています。
一方、禅譲ではなく放伐によって王朝交代がなされたとも解釈されるのでこの場合は相剋(そうこく)という関係で説明されます。順番ではなく一つ空けた五行は相性が悪く前者が後者を剋するとされるのです。たとえば木と土なら木剋土と言い最悪の相性です。同様に火剋金、土剋水、金剋木、水剋火となります。
この場合は秦を水徳と説明すると漢との関係性が甚だおかしくなるのです。漢を火徳とすれば水剋火でむしろ水徳の秦の方が強い事になります。ということで放伐理論で説明する時は漢は土剋水で土徳だと主張しなければならなくなるのです。
この考え方は戦国時代中期頃成立した思想ですが、各王朝は自分の正統性を主張するために時にはこじつけとも思われる手法さえ使いました。
これが暦とどんな関係があるのか疑問に思われる方も多いと思いますが、実は大いに関係があります。12カ月を冬至のある月を子月(だいたい太陽暦では12月)に定め、丑寅卯辰巳~と定めるのは共通ですが、正月をどこに持ってくるか問題となってくるのです。
自分の王朝がどの徳を有しているかで変わってくるからです。これも説明すると長くなるし私も完全に把握しているとは言い難いのでそんなものだと思って下さい。
ですから後世歴史を見てみると年代にずれが生じてくるのです。ある国では年が改まっているのに別の国ではまだ前の年のままだというように。
研究者によると、例えば諸侯国の一つ衛の君主の在位年が10年ほどずれているそうなんです。