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オルドスの重要性

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 チベット高原の北西の辺縁、青海省バヤンカラ山脈を源流とし黄土高原を巡って中原に達し渤海湾にそそぐ全長5464㎞の大河黄河。黄土高原を通るため黄砂が交じり黄土色の河になります。上流の肥沃な土砂が中下流に氾濫原を形成しました。そこは麦作の適地で豊かな生産力を背景に黄河文明が生まれます。

 黄河は、上流付近では透明な河川でした。黄土高原に入ると途中蘭州から几状に大きく北流します。包頭のあたりから南流し潼関で東流に戻り開封を過ぎて北東に転じ渤海に至るのです。この几状湾曲部の中で一番南を流れる黄河の支流渭水の流域は関中盆地と呼ばれ支那古代文明揺籃の地でした。周の都鎬京(こうけい)、秦の都咸陽(かんよう)、前漢の都長安もこの地にあります。

 オルドス地方とは、几状の中で渭水流域を除く北半分ほどの部分を指します。現在でこそ不毛な砂漠が続きますが、紀元前後頃までは豊かな草原が広がっていました。ただ緑の部分が全くないわけではなく、几状の西部、黄河の西岸あたりは灌漑されています。その中心都市は現在寧夏回族自治区の首府となっている銀川市。中世は興慶府と呼ばれチベット系の党項(タングート)族が建国した西夏の首都となりました。

 オルドスは地図で見るとずいぶん狭い土地ですが、北方遊牧民族にとっては重要な意味を持っていました。黄河上流は冬季には凍結し馬で渡ることができます。五原(現在の内蒙古自治区バヤンノールあたり)で氷結した黄河を渡った匈奴などの遊牧民はオルドスを拠点とし渭水流域や中原に侵入したのです。

 秦代や漢代の長城は几状の北方を走っていましたから、一旦オルドスに入ってしまえば遊牧民族の侵略を防ぐ手立てはありません。秦の始皇帝時代、将軍蒙恬は30万の大軍を率いオルドスに侵入した匈奴を撃破、長城線の外に叩き出しましたが、いつも成功するとは限りませんでした。

 当時のオルドスは豊かな草原が広がり、遊牧民族たちはここだけで割拠できるほどだったと言われます。ですからオルドスの地は遊牧民族にとってもあこがれの土地だったのです。漢民族側にとって一番脆弱だったのが関中盆地に隣接するオルドス地方でした。ですから後の王朝は、関中盆地とオルドスの間にも長城を築きます。

 歴代の支那の王朝は、長城を守るため屯田兵を置きました。長城が後の時代になるほど南遷するのは屯田できる年間降水量500mlの線まで下がった結果でした。オルドスも乾燥化が進み砂漠化しますから几状の内部北半分は捨てても構わなかったのでしょう。

 ではなぜ乾燥化が進んだかというと、漢民族の人口が増加し灌漑で黄河の水量が激減したからです。酷い年は渤海湾にそそぐ下流が完全に干上がったこともあったそうです。その意味では砂漠化も漢民族の自業自得とも言えますね。中央アジアアラル海の縮小と全く同じケースです。人間の業の深さを感じます。