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鎌倉幕府滅亡   Ⅱ 楠木合戦

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 最初に私の歴史見解を述べさせてください。といいますのも南朝正統(正閏)論も理解できるうえに皇位継承に関する非常にデリケートな問題だからです。
 
 歴史解釈には個人ごとの見解があって当然ですし、どれが正しいとは一概には言えないと思います。ですからあくまで私の個人的考えですし南朝が正統であると思われる方は以後お読みになられないほうが精神衛生上よろしいかと愚考します。
 
 色々経緯があるとはいえ両統迭立が公式に認められた以上後嵯峨天皇から後醍醐天皇までは正統であると考えます。
 
 ただし後醍醐天皇は反乱をおこして敗れ、本意ではないにしても譲位され持明院統光厳天皇に位を譲られています。両統迭立によって既に皇太子となっていた上での譲位ですから光厳天皇の即位も正統であるといえます。
 
 
 一方、一度譲位された後醍醐天皇(制式には上皇というべきですが…)はのちに鎌倉幕府を倒し再び皇位に返り咲かれましたが、この時点で皇統は別なものになったと私は考えます。ですから南朝の歴代天子は南朝天皇としては正統ですが、神武天皇から続く皇統に含まれるべきではないと私は考えます。
 
 このような経緯から私は北朝の天子が正統であり、南北朝合一後北朝から歴代天皇を輩出した事は正閏論からも妥当であったと思うのです。
 
 
 前置きが非常に長くなりました。世の中では南朝正統論が人口に膾炙していますし私の見解は違和感を覚える方が多いかも?と思ったのでくどいようですが書かせていただきました。
 
 
 
 さて本題に戻ります。伝説では後醍醐天皇が御所の庭に設けられた玉座が大木の南にあったという夢を見られて、木の南すなわち楠ということから楠木正成を見出されたといわれます。
 
 
 もちろんあくまで伝説に過ぎないのでしょうが、正成はいわゆる悪党と呼ばれる新興の武士団でした。鎌倉時代末期、没落した御家人やあたらしく交易などで財を得た階級から悪党と呼ばれる者たちが出現します。
 
 
 彼らは既存の権威や秩序にとらわれない事から悪党と呼ばれました。もちろん強盗を生業とする山賊海賊の類も悪党に含まれますが、一方幕府や朝廷の命に従わず独自の統治や経済活動をする者も悪党でありその範囲は広いのです。
 
 後醍醐天皇は、これら新興の武士たちの力を使って鎌倉幕府を倒そうとしていたのでした。一説では正成と後醍醐天皇の皇子大塔宮護良(もりなが もりよし)親王との間に繋がりがあったともいわれます。
 
 というのは正成の根拠地河内には、山岳信仰の中心地のひとつである金剛山があるのです。護良親王は当時天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主(ざす)でした。
 
 
 笠置山後醍醐天皇が敗北し幕府軍に捕らえられていた頃、河内国赤坂城で楠木正成という者が小癪にも籠城し幕府に抵抗しようとしているという報が入ります。
 
 
 1331年10月、まだ京都に留まっていた幕府軍六波羅で対策を協議します。たかが小城。籠城するのも無名の武士。幕府軍首脳は山賊の類がとち狂っているのではないか?と考えたのでしょう。
 
 
 せっかく遠征してきたのでついでに踏み潰しておくか、くらいの軽い気持ちだった事は想像に難くありません。大仏貞直(おさらぎさだなお)率いる東路軍は宇治から山崎に入り南下、八幡を経て北方から進撃するのは金沢貞冬の軍、山崎から天王寺を下る江間越前入道の西南軍、そして伊賀路を進む足利高氏の軍勢が四方から赤坂城に襲いかかりました。総勢十万騎とも称される大軍でした。
 
 一方楠木勢は五百余だったと伝えられます。吹けば飛ぶような小城にわずかの兵、幕府軍はすっかり舐めてかかります。
 
 
 しかし敵の抵抗は意外と強靭でした。太平記が伝えるところによると、浅い堀を越えて軍兵が崖の下まで辿りつくと城中や向かいの山から雨あられと矢が降り注ぎます。それでも遮二無二進んで城の外壁に取り付くと突如壁が崩れ瓦礫の下敷きになる者多数。かろうじて生き残った者も煮えたぎった油や大石の洗礼を受けました。
 
 
 緒戦だけで数百人の死傷者が出たそうです。このような楠木軍の戦いは正規の武士のそれではありません。のちに楠木流軍学ともてはやされますが、その実態は悪党時代の非正規戦の経験からもたらされたものでしょう。
 
 
 力攻めは被害が増すばかりだと悟った幕府軍は遠巻きにして敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦に切り替えます。これは効果を発揮したようです。正成は籠城の準備がよく出来ていなかったようで常に兵糧は不足気味でした。
 
 
 数日後の風の強い夜、正成は城に火を掛け行方をくらまします。元々大した人物ではないと考えていた幕府軍は正成の行方を厳しく詮議することもせず引き揚げました。
 
 
 
 鎌倉幕府は、後醍醐天皇隠岐に流し各地で起こった抵抗も粉砕したのですっかり平和が戻ったと安心したようです。
 
 
 しかし果たしてそれは本当だったのでしょうか?間もなく幕府の考えは間違いであったという事を身を持って悟ることになります。