歴史解釈には個人ごとの見解があって当然ですし、どれが正しいとは一概には言えないと思います。ですからあくまで私の個人的考えですし南朝が正統であると思われる方は以後お読みになられないほうが精神衛生上よろしいかと愚考します。
ただし後醍醐天皇は反乱をおこして敗れ、本意ではないにしても譲位され持明院統の光厳天皇に位を譲られています。両統迭立によって既に皇太子となっていた上での譲位ですから光厳天皇の即位も正統であるといえます。
一方、一度譲位された後醍醐天皇(制式には上皇というべきですが…)はのちに鎌倉幕府を倒し再び皇位に返り咲かれましたが、この時点で皇統は別なものになったと私は考えます。ですから南朝の歴代天子は南朝の天皇としては正統ですが、神武天皇から続く皇統に含まれるべきではないと私は考えます。
前置きが非常に長くなりました。世の中では南朝正統論が人口に膾炙していますし私の見解は違和感を覚える方が多いかも?と思ったのでくどいようですが書かせていただきました。
彼らは既存の権威や秩序にとらわれない事から悪党と呼ばれました。もちろん強盗を生業とする山賊海賊の類も悪党に含まれますが、一方幕府や朝廷の命に従わず独自の統治や経済活動をする者も悪党でありその範囲は広いのです。
せっかく遠征してきたのでついでに踏み潰しておくか、くらいの軽い気持ちだった事は想像に難くありません。大仏貞直(おさらぎさだなお)率いる東路軍は宇治から山崎に入り南下、八幡を経て北方から進撃するのは金沢貞冬の軍、山崎から天王寺を下る江間越前入道の西南軍、そして伊賀路を進む足利高氏の軍勢が四方から赤坂城に襲いかかりました。総勢十万騎とも称される大軍でした。
一方楠木勢は五百余だったと伝えられます。吹けば飛ぶような小城にわずかの兵、幕府軍はすっかり舐めてかかります。
しかし敵の抵抗は意外と強靭でした。太平記が伝えるところによると、浅い堀を越えて軍兵が崖の下まで辿りつくと城中や向かいの山から雨あられと矢が降り注ぎます。それでも遮二無二進んで城の外壁に取り付くと突如壁が崩れ瓦礫の下敷きになる者多数。かろうじて生き残った者も煮えたぎった油や大石の洗礼を受けました。
緒戦だけで数百人の死傷者が出たそうです。このような楠木軍の戦いは正規の武士のそれではありません。のちに楠木流軍学ともてはやされますが、その実態は悪党時代の非正規戦の経験からもたらされたものでしょう。
力攻めは被害が増すばかりだと悟った幕府軍は遠巻きにして敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦に切り替えます。これは効果を発揮したようです。正成は籠城の準備がよく出来ていなかったようで常に兵糧は不足気味でした。
数日後の風の強い夜、正成は城に火を掛け行方をくらまします。元々大した人物ではないと考えていた幕府軍は正成の行方を厳しく詮議することもせず引き揚げました。
しかし果たしてそれは本当だったのでしょうか?間もなく幕府の考えは間違いであったという事を身を持って悟ることになります。